こんにちは、昭和シニアです。2021年8月、東京オリンピック・パラリンピックが開催され無事に閉幕しました。
今回のオリンピック開催は、コロナ禍で一年延びた後の開催で、特殊な環境の基でしたね。
選手・ボランチィア他大勢の関係者の方々の特別な努力・配慮結果、成し遂げられたと思います。
オリンピック競泳と水泳選手。
・・・オリンピックで水泳と言えば日本中を熱狂させた、戦前は前畑秀子さんと戦後は古橋廣之進さんを思い出します。
私事ですが50年ほど前、幸運にもこのお二人に同時にお目にかかりました。
お二人とも人柄も素晴らしい方で、その感激が今でも蘇ってきます。
兵藤(前畑)秀子さん・古橋廣之進さんに会う。
・・・勤務先で厚生施設としてプールを新設する時期に、偶然にも小生は水泳部に在籍していました。
唯一の男子水泳部員だった小生は、プール開きの来賓の古橋広之進さんの世話役として、
ロッカールーム・お風呂などの新の案内役を任されました。
案内役を無事終えたその日の就寝時は「充実した一日だったその日の就寝時は、感激でなかなか寝付けませんでした。
古橋廣之進さん(1928年~2009年)。
・・・「フジヤマのトビウオ」と称賛された世界的な水泳選手。
偶然とはいえ幸運にも古橋選手を迎える案内役が自分に巡ってきました(夢のようでした)。
戦後間もない時期、世界記録を次々と打ちたて、敗戦に打ちひしがれていた日本人に生きる勇気を与えた国民的ヒーローでした。
1928年、静岡県の浜名湖のほとりに生まれた古橋選手は12歳で学童新記録を打ち立てるなど、小さい頃から天才ぶりを発揮しました。
昭和22年(1947年)、戦後初の日本選手権では400m自由形で世界新記録を樹立しました。
私が生まれた翌年の出来事でしたが、年長の兄貴たちからは古橋選手の活躍振りはよく聞いていました。
しかし、当時の日本は国際水泳連盟に復帰が許されておらず、古橋選手の記録は公認されませんでした。
翌年(1948年)、連盟復帰がなると、古橋選手は全米選手権に乗り込み、アメリカの選手を相手に驚異的な世界記録を次々に樹立し、世界中の度肝を抜きました。
戦後自信を失いかけていた日本国民は、古橋選手の泳ぐたびの活躍で多いに溜飲を下げ、戦後復興の気力を回復しました。
20代半ばで現役を退くと、古橋選手は日本水泳連盟会長や日本オリンピック委員会会長などを歴任、国際大会に強い選手の育成に努めました。
2009年世界水泳選手権開催のイタリア・ローマで死去。「水泳ニッポン」の礎を築いた、「魚になるまで泳げ」「水泳一筋の人生」でした。
前畑(兵藤)秀子さん。
・・・前畑選手は大正3年(1914年)5月30日、今の橋本市古佐田に生まれました。
豆腐製造業の父福太郎さん、母光枝さんの三男一女の長女でした。
橋本小学校に入学以来、暇さえあれば家の近くの紀ノ川妻ノ浦に遊び水泳に興じました。
小学校5年の時から全日本学童大会では幾度となく、平泳で学童新を出しました。
高等科2年、大阪築港プールでの水泳大会100m平泳で1.22.2の日本新を樹立しました。
昭和5年勧誘され、名古屋の椙山女学校3年に編入学して本格的に水泳練習に入りました。
50年ほど前、小生の勤務した会社には椙山女学校卒業の水泳部員が多かったのもうなずけます。
因みに1968年メキシコオリンピック、女子400mリレー6位の日本チームの小林美知子選手も水泳部に在籍していました。
(彼女の泳ぎを目の当たりにしましたが、超早い!驚きました!オリンピック選手のフィジカルは半端ないです)。
昭和11年(1936年)ベルリンオリンピック大会での200m平泳決勝に念願の金メダルを獲得(3.3.6)しました。
このレースでドイツゲネンゲル選手とのデットヒートの末、念願の金メダルを獲得しました。
このレースでの実況中継が「前畑ガンバレ」の名放送となりました。
世界一の念願を果たした前畑選手は、名古屋で医師兵藤さんと結婚し、その後二女と三人のお孫さんに恵まれました。
名古屋瑞穂スイミングクラブで水泳指導者として、後輩の水泳指導に専念しました。おばあちゃん指導者として話題の人でした。
このころ小生の勤務していた会社のプール開きにゲスト招待され、幸運にもお目にかかりました。
兵藤(前畑)さん、古橋さんと豪華メンバーでした。
兵藤(前畑)さんは、話が上手で独特の巧妙な話術に選手時代の情熱をプラスしてのお話は、興味深く説得力がありました。
元気一ぱいの、オリンピックチャンピオンも、年と病気には勝てませんでした。
平成7年(1995)、80年の栄光の人生を閉じました。彼女の人柄は日本人の心に生きています。
前畑ガンバレ!今は、”日本人ガンバレ!”と彼女に言われているようです。
幼少の頃、水恐怖症。
・・・戦後生まれの私が高校三年生の時、[57年前、1964年(昭和39)10月10日]、東京オリンピックが開催されました。
日本中がスポーツの祭典に沸き立つ中、故郷鹿児島にも初の50mプールが新設されました。
そのプール初使用が、高校三年の時でした。私が100メートル平泳ぎにエントリーした県大会でした。
実は、中学3年までマル秘にしていましたが、恥ずかしながら幼少期に川で溺れました。
奇跡的に助けられましたが、それがきっかけで水恐怖症となり中3まで金づちだったのです。
その私が高校から水泳部に入り、県大会にエントリーするなんて、その不思議ないきさつがあります。
では、幼少の頃川で溺れて、水恐怖症の自分がなぜ県大会まで出場できたのか。
私にとっては恥ずかしながら暴露レベルのお話しをします。
毎年繰り返される痛ましい「水の事故」に関する記事を自分の反省も含め、ブログ記事にしました。
<ご参照>
「水の事故の現状と対策:川でおぼれたが助かった」を、ご参照ください。
幼少の頃、生活背景。
・・・水の事故で多いのが夏の期間で、川・海ですね。私は、川で溺れた時の臨死体験を思い出します。
私は8歳の夏休みに、実家の裏庭に接して流れる川で溺れました。
奇跡的に助けられましたので、その背景をお話しします。
鹿児島市内で2番目の大きな川が実家の堤防に沿って流れていました。
その川は、裏庭に接して大きくカーブを描き、その場所で流れは速く川底は深くなっていました。
台風などの大雨で水かさが増えると、とても危険な川でした。
一方平常時は、アユも放流され、ウナギ筒でウナギなど好きな時にゲットできるきれいな川でした。
そして平常時の対岸は、上流から運ばれたきれいな砂が向こう岸に堆積していました。
堆積した砂によって、まるで小さな海水浴浴場の砂場のように砂場が広がり、付近の子供たちの格好の遊び場でした。
川で溺れた経緯
・・・上流の浅瀬から、年長の爾さんたちが先に飛び込み流れに乗って浮かびます。
裏庭に沿ったカーブに近付くと川の流れはさらに速く深くなりカーブを勢いよく過ぎてゆきます。
その流れに乗って、順序よく兄さんたちが歓声を上げながら下流の浅瀬まで流されます。皆とても嬉しそうでした。
それを見ていた私の周りにいる子供たちが、列に並び始めました。
私もその列に並びました。少し不安でしたが、私の前には年少の子供が並んでいました。
年少の子供が飛び込み、次は私のばんです。
ここで囃子言葉が出ないうちに!私は深い流れに向かって飛び込みました。
ところが飛び込んだ勢いのまま、体は浮かびませんでした。そのまま川の流れで、深みに引きづられてしまいました。
溺れた時の対策
・・・深みに引き込まれ、流されるまま回転しているような感覚でした。
子供ながら、このままでは危ない!と思いました。なぜかその時、クラス担任のM先生の顔が浮かびました。
そして先生の夏休み前の話を思い出しました。”川でおぼれたなと思ったときは、体の力を抜き片手をあげなさい”でした。
その通り、体の力を抜き右手を上げました。こんな状況で、よく思い出したな~と、今でも不思議です。
しかし、私自身がこの方法を実践・体験し助かりましたので、参考になればとの思いで記事にしました。
危ない体験は臨死体験だった。
・・・水の中で回転しているその時、脳みその中に、明るい光と画面が現れました。
それは、4才の頃まで遊んだ生家の裏山でした。そこは、おじさんの持っているミカン畑でした、
その中を白い野兎がかけて行くのを見かけた時ののどかな風景でした。
まさに、♪ミカンの花が咲いていた~の歌ぴったりの大好きな場所でした。
そのミカン畑に行く前の小径の脇には一本の柿の木がありました。
私のすぐ上の四男の兄貴が赤い柿の実をとってくれて、小径に二人で並んで柿の実をお腹いっぱい食べた場所でした。
心地よく幸せに満ち足りた時間でした。(体の力を抜き、右手をあげたあとの瞬間的によみがえった記憶でした)。
大人になっても忘れない命の恩人。
・・・その状態の中で、こいはだいよ(この人は誰だ)と、声が聞こえ、私の右腕をつかみ引き上げてくれた人がいました。
同じ町内に住んでいる年長のMお兄さんでした。まさに川で溺れ、流され行く私の片手を引き上げてくれた、幼少期の命の恩人です。
彼曰く、たまたま一番深い川のカーブに突き出している、石段に腰かけて川を眺めながら休んでいた、その時の出来事だったそうでした。
偶然、流れてくる川の中から出た私の片手に気づいたそうです。人命救助で表彰レベルだと思います。
中三で金づち克服。
・・・子供の頃、川で溺れた時の自分は、よく考えたら「まだ泳げなかったんだ」と、反省しました。
チャレンジしたけど失敗したケースですね(薩摩の教え:失敗したとしても、挑戦しなくて後悔するより良い)
水が怖い、金づち時代。
・・・その後、水が怖くなりました。遊び仲間とよく海に行きましたが、深い所へはいけません。
素潜りで対応し、いわゆる金づち状態をシークレット状態にしていました。
金づち克服、その切っ掛け。
・・・中学三年の夏のある日、仲良しグループ(3人の男子・3人の女子)で海水浴に行くことになりました。
当初は、浜辺でビーチボールなどで遊んでいました。そのうちの一人が突然、沖のブイまで泳ごうと言い出しました。
結局女子は遠慮し、男子3人が泳ぐことになりました。
ここで、”実は自分は泳げないんだ”なんてとても言えません。男の子はチャレンジのみです。
沖に向かって必死に泳ぎました。と言えばかっこいいですが、泳ぐというより犬かきと素潜りのミックス泳法です。
何とか沖のブイに捕まりました。と言うよりしがみつきました。
沖に浮かぶブイの周りの水温は、浜辺より思った以上に冷たく、身の危険を感じるほどで怖くなりました。
沖は冷たく危ない!との思いでほっとする間もなく、今度は3人で岸に向かって泳ぎ始めました。
帰りの犬かきと素潜りのミックス泳法は、沖のブイに向かうよりきつかったです。浜辺に向かってひたすら泳ぎ(もがき)ました。
やっと岸に近付き海底の砂を手でつかむ迄、ヘロヘロでした。そのミックス泳法も自然に平泳ぎ風になっていました。
金づち克服後のスキルアップ。
・・・8才から「シークレットにしていた金づち」はこの出来事を機に克服しました。その後の開放感・嬉しさは格別でした。
映画:「ショーシャンクの空の下」で主人公が脱獄に成功したその後、大空を仰いだ時のあの開放感でした(笑)。
金づち脱出の切っ掛けは、やはりチャレンジ精神(薩摩の教え)の名残だったと思います。
子供同士が遊ぶときの囃子言葉「泣こかい・飛ぼかい・泣こよかひっ飛べ」が、脳内に浸透しているのかもしれません。
中学三年の夏、泳げるようになった喜びだけで高校の水泳部に入りました。
高校三で県大会決勝。
・・・予想はしていましたが、高校の水泳部に入る皆さんは、レベルが違いました。
小学校に入る前からスイミングスクールに通い鍛えられた人々だけでした。
正直、中学三年で泳げるようになった私は、練習についていくのが精いっぱいでした。
- 練習量:一日(放課後)、5,000m~8,000m。
- 練習所:25mプール、市内高校合同で使用。プール掃除あり。
- 練習時期:プール使用期間、5月~10月。陸上ランニング、11月~4月。
高校1~2年を背泳の練習に専念しましたが記録が伸びませんでした。高校3年でキャプテンを任されました。
その後図書館で、ある水泳の本に出会いました。自分の足首の可動域が平泳ぎに向いていると気づき、平泳ぎに転向しました。
<ご参考>競泳種目と足首の可動域の密接な関係。
県大会100m平泳ぎ決勝、スタート。
・・・そんな私が、県大会の決勝で5コースで泳ぐことになったのには、訳がありました。
実は100m平泳ぎにエントリーしたのは偶然8人で、決勝も8コースだったのです。予選と決勝が同時ということです。
第五のコース~○○高校うたまろ君~のアナウンスが流れた時は、不思議と落ち着いていました。
スタート台から見る50mプールの広々とした世界が広がっていました!
さざ波が太陽の光を反映し、キラキラと輝き浮かんで、まるで別世界にいるようでした。
ここまで来たらやるしかない!スタートの号砲が鳴り、チェストー(薩摩の叫び)飛び込みました。
平泳ぎ決勝のターンで危ない体験。
・・・さて、平泳ぎ100m決勝に臨み50mのターンをした時、後半に向かい思い切り息を吸い込みました。
しかし、そのタイミングで、しぶきの塊が口の奥に飛び込んできました。
でも決勝の競泳中です、折り返しを泳ぐしかありません。
プールの中で泳いでいる途中、せき込むことも出来ず、しぶきがのどの奥にたまったままです。
息をしたい!しかし、ノーブレストの状態で残り50メートルをゴールまで泳ぎました。
息をこらえてもがくその時の苦しさは、今でも思い出します。
息も咳もできない状態でゴールを目指して泳ぐしかありませんでした。
プールのスタート地点に立たないと息も咳も出来ません。
競技用のプールの途中は2メートル程と深くなっています。
人間の身長で泳ぎをやめると、完全におぼれ死んでしまいます。
死ぬかと思う意識の中で、ただゴールに向けて泳ぐしかありません。
ただもう、必死にもがいたという表現がぴったりの苦しい体験でした。その時プールの水が冷たく感じました。
水泳競技時のプールの水は冷たくしてあります。前日から氷を入れて冷やします。
先輩から聞いた話ですが、早朝にプールに行くと前日に入れた氷が解け切らず浮いているときがあるそうです。
水温が高いと、水をキャッチできない感覚があります。
また、熱が体にこもり体力を消耗します。練習の時は水の中でも汗をかきます。
ゴールまでの無呼吸体験談。
・・・決勝ターンの時に戻りますが、50mプールの水深は2mあり、途中棄権で泳ぎをやめてもおぼれるだけです。
と、前に記述しましたが、その時頭をよぎったのが・・・水泳選手がおぼれるなんて前代未聞!。
新聞記事にでも出たら~身内に恥をかかすことになります。
なんとしても自分が生きて助かるには1m40cmのスタート時点を目指し、そこに泳ぎつくしかありません。
その時は呼吸をこらえ息を止め、ひたすら泳ぐしかありませんでした。
ゴール後の意識もうろう体験談。
・・・やっと、ゴール地点まで到着。意識は、もうろう手を挙げることも出来ませんでした。
というのは、次のレースに出る同じコースの選手は、前のレースの選手に手を貸します。
プールのゴール地点から引き上げてあげるのが、一応のエチケットでした。
せっかく次の選手が手を貸してくれたのに、疲労困憊でとっさに手を挙げることも出来ませんでした。
私が助けを断ったと判断したのでしょう、手を差し伸べた選手も控えの席に戻ってしまいました。
咳払いし呼吸を整えプールの壁に寄りかかり、体力回復を待ちました。
次のレースが始まる気配を感じ、プールサイドに手をかけ足で飛び上がる反動を利用しました。
一気に腕に渾身の力をこめ、かろうじて這い上がることができました。成功して安堵しました(笑)。
振り返れば50mをノーブレストで泳いだことになります。まさに息のできない苦しい体験でした。
ゴール後に、プールから懸垂で這い上がる事に失敗したらどんなになっていたか?想像もしたくありません。
競技での順位。
・・・選手控席で結果発表を待っていると、8人中7位の成績結果のアナウンスが流れてきました。
入賞は、6位まででしたが順位は気になりませんでした。ビリじゃなった!。
いつも合同練習の時はビリで皆に迷惑をかけていましたから。
自分としてはビリじゃなかっただけでも、結果には大満足でした。
すると、結果発表後に練習仲間が次々に、よかった!頑張ったね。
いいタイムだったね。と次々私の周りに集まって来てくれました。
みんなが喜んでくれる顔を見て、合同練習ではいつも迷惑をかけていたのですが・・・。
泳ぐのが遅くて申し訳ないと思っていたのに、皆の笑顔に感謝・感激でした。
感謝の気持ちでいっぱいになりました。なんと素晴らしい仲間と練習をしていたのだろう!と思いました。
スポーツ競技での順位評価。
・・・競技結果発表の後、優勝した選手よりも明らかに自分のほうに選手が集まってくれました。
私は実感しました。スポーツ競技は順位を競うように仕組まれはています。
しかし、それだけではありません。順位と関係なく出場者にはそれぞれのドラマがあります。
競技にエントリーするまでの努力の過程を、想像することも大切だと思うようになりました。
順位だけの表面的な評価はもったいない。と、思うようになりました。
それを裏付ける出来事が試合の次の日にありました。新聞部の部員が、私に会いに来ました。
昨日の県大会の取材に行ったそうです。彼は、私達の日ごろの水泳の合同練習を見に来たことはありません。
彼曰く、6位以内の入賞なら記事になったのに残念だ、みたいなことを伝えにきました。
私にとっては、県大会決勝を体験し、貴重ないい体験でした。
しかし新聞記事を書く上で、彼の期待する要求(入賞する)を満足しなかったのでしょう。
学校新聞にふさわしい記事なら、○○君が頑張ってるとか、○○部が社会貢献してるとか、学校の周りの史跡の紹介とか、いくらでもあると思いました。
まとめ
・・・県大会決勝の時は、順位はどうでもよっかた。”ただ自分が全力でチャレンジした!”という体験が残りました。
そして素晴らしい仲間と共有した、貴重で充実した思い出だけが残りました。
振り返れば幼少の頃、川で溺れて水恐怖症となり、中三まで金づちでした。
その後、中三の夏休みに金づちを克服し、高3で県大会100メートル平泳ぎ決勝を経験出来ました。
薩摩の教え「何事にもとにかくチャレンジしてみる、挑戦してうまくいかなかった場合でも、挑戦しなかった事を後悔するよりはるかに良い」の精神でした。
前畑(兵藤)秀子さん、古橋廣之進さんから贈られた共通する言葉でした。
スポーツの世界でトップを目指せるのは、青春のほんの一時期です。「集中!!」この二文字を我々に贈ってくださいました。
最後までご覧いただきありがとうございました。
番外編、2022年3月:北京パラリンピック。
・・・2022年3月4日、北京でパラリンピックが開幕しますが、現在もロシアがウクライナを武力で侵攻中です。
オリンピックの開催中にも関わらず此の時期の軍事行動は、昨年12月の国連総会の決議に違反しています。
パラリンピックに関するコラム。
コラム1。
・・・第二次世界大戦中、医師のグッドマン博士は英国の病院で脊髄を損傷した兵士たちを診ました。
治療にスポーツを取り入れ1948年、車いすに乗る元兵士たちのアーチェリー大会を病院で開催、パラリンピックの原点となりました。
「パラリンピックの父」と呼ばれる博士はユダヤ人。出身地ドイツでナチスによる迫害が始まり、英国に亡命しました。
「パラリンピックへの招待、挑戦するアスリートたち」(中村太郎著)などに教わった。
今日、北京パラリンピックが開幕しますが、天国の博士はウクライナの戦闘に何を思っているのだろうか。
キエフのテレビ塔がロシア軍のミサイルで攻撃されたが、現場は大戦中にホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)が行われたパぴ・ヤール地区。追悼施設も被爆した。
同地区でナチスに銃殺されたユダヤ人らは十万人に上るともいわれます。
ロシアのプーチン大統領はウクライナの政権を「ネオナチグループ」と呼び、ロシア系住民が虐殺されていると訴えるが、真偽は疑わしい。
パピ・ヤールの施設側も「侵攻を正当化するため、ホロコーストをゆがめようとしている」などと非難し、ウクライナ侵攻は、ユダヤ人の心も傷つけています。
障害者が前向きに生きることを願った博士。「失われたものを数えるな残っている物を最大限に生かせ」と語ったとと言う。
ウクライナで失われる命を数えなくってもいい日はいつ来るのだろう。(2022/3/4日、中日春秋)。
コラム2。
・・・ウクライナのキエフ出身で、翻訳などの仕事をする女性オリガ・ホメンコさんの日本語のエッセー集「ウクライナから愛をこめて」。
1986年のチェルノブイリ原発事故の記憶も書かれている。
著者は当時、中学生。キエフは現場から百キロ以上あるが、ラジオの声は帰宅後は靴を洗い、建物の窓はすべて閉めるよう促したという。
やがて親と離れ、原発と反対方向の保養地に学校ごと列車で避難した。
「子供ばかりの記者だったのでちょっと不思議な感じだった」と記す。
ロシアとの戦いのために出国できない18~60才の男性を残し、女性と子供が列車などで逃げる今のウクライナ。
南部のラブロジエ原発をロシア軍が攻撃し、占領した。惨事を招きかねない蛮行である。
チェリノブイリ原発もロシア軍の手に落ちたが、職員は留め置かれている。
休息が不十分で疲弊し、安全が懸念されていると米メディアが伝えている。
ロシアのプーチン大統領が放射能の怖さを知らないとは思えぬが、指揮下にある軍の行動は理解に苦しむ。
オリガさんの中学時代の避難は3か月で終わった。エッセーにこうある。
「どれだけ嬉しかったか!また両親と一緒に家に住めるし、好きな学校にも行けるし、みんなで授業を受けれるし!」。
プーチン氏には、家を出た人々がすぐに帰れるよう切にお願いしたい。
遠征の続くロシア兵も含めて。(2022/3/5日、中日春秋)。
コラム3。
・・・1980年代後半、旧ソ連でペレストロイカ(立て直し)とグラスノスチ)情報公開が進んでいた当時の小噺だそうだ。
英国の犬とロシアの犬が出会った。英国の犬が尋ねた。「ペレストロイカで生活は楽になったかい」。
「もちろん」とロシアの犬が答えた。「エサが少なくなったのは事実だが、好きなだけ、吠えられるようになったからね」。ロシアのユーモアと言う本に教わった。
浮かぶのは口輪をはめられ、ふさぎ込む犬の顔である。旧ソ連の崩壊以来、鋭い政府批判を続けてきた独立系ラジオ「モスクワのこだま」が解散したそうだ。
解散に追い込まれたというのが本当のところだろう。ウクライナ侵攻を続けるロシアは情報統制を強めている。
戦争批判はおろか侵攻の事実を伝えることさえ許さない。やはり独立系テレビ「ドシチ」も放送中止になっている。
「偽情報」を流した者や政府を批判した者に罰金を科す方が発効した。
最長で15年の懲役。「戦争ではない」「ウクライナは住民を集団虐殺している」。
と、ニセ情報を流しているプーチン大統領が真実を取り締まるとは笑えるどころか、背筋の凍る小咄である。
報道によって国内で戦争反対の声が高まるのを恐れているのだろうが、上方が拡散しやすい時代にうまくは進むまい。
それは山のこだまを黙らせ、天からのドシチ(雨)を止めようとする、無謀な行為である。(2022/3/6日、中日春秋)。
以上、2月24日に始まった、ロシアのウクライナ侵攻で、オリンピック史上予想だにしない悲惨な現実が今なお展開されています。
番外編として記録しました。最後まで読んでいただき、有り難うございました。