プロフィール
・・・ブログを見て下さりありがとうございます。早速、プロフィールとして、出生・趣味など自己紹介をします。
出生
1946年、鹿児島県生まれ。7人兄弟の下から2番目のせいか?
何故か乳幼児期の写真は何処にもありません(笑と涙の人生を予感)。
という訳で一番幼い頃の写真は、実家の庭先で撮った小2の頃の写真が1枚のみです。
その写真のバックの畑の下は崖になっていて、市内で2番目に大きな「稲荷川」が実家の裏庭に沿って流れていました。
危ない環境~私が8才の時、その川で溺れ奇跡的に近所の兄ちゃんに助けられました(人生最大の危機でした)。
住居状況
名古屋市内にて住宅地を取得した後で、自ら設計したマイホームに在住しています。
よって、3か所ほど設計ミスを含め愛着ある我が家と、スモールガーデンとともに何とか30年以上在住。子供二人、孫三人。
趣味
木版画制作(年中)、ギター演奏(たまに)、旅行(願望)、DIY工作(専らスモールガーデンと住宅周りのメンテナンス)。
スポーツ
全般的に好きです。サッカー・柔道・水泳・バレーボール・体操・相撲(但し、観るだけに特化)。
人生の歩み
人生の歩みとして、幼少期から学生時代・就職・社会生活そして退職後の状況などを掲載しました。
幼少~小学校時代
・・・山・海・川に囲まれ自然に恵まれた環境で、近所のお兄ちゃんや友達と毎日遊んでいました。
一方、自然と危険は隣り合わせでした。前述しましたが、私が小学校三年の夏休みでした。
実家の裏庭と隣接した稲荷川でおぼれたところを近所のM兄ちゃんに助けられ、命拾いした経験があります。
助けていただいた近所のM兄ちゃんに感謝です。
夏休みといえば、ラジオ体操・くろんぼ大会・カブトムシ捕り・夏祭りの子供相撲大会など思い出します。
コント55号の坂上二郎さんの実家は同じ町内で、彼の実家の庭は広く、町内の子供の夏休み中の「早朝ラジオ体操」の場所でした。
TVで二郎さんが映ると、彼のお父さんの顔(眉が太く彫りの深い顔)を思い出します。
彼の実家の庭にあった大きな池に、たくさんの鯉が泳いでいたのを思い出します。
常に𠮟られ体験・1度だけ褒められ体験
小学校当時は、いたずら小僧でした。バケツを持って廊下に立たされました。ビンタも食らいました。
バケツ体験:音楽のテストで楽譜が記され、曲名を当てる問題でした。つい、譜面にそって口ずさんでしまったのです。
静寂な教室のムードは壊され、I先生の逆鱗に触れてしまいました。
ビンタ体験:職員室に近い校庭の隅に、水飲み場がありました。蛇口を指で押さえ校庭(一部生徒)に向け噴射ー!。
霧状の噴射で美しい虹を再現すべく模索中に、先生に見つかり大目玉をくらいました。
褒められ体験:毎年開催される全校絵画コンクールにおいて、小4の時「特選」を頂き、一度だけ褒められたことを覚えています。
その後、その作品は市の美術館が保管するそうで、戻ってきませんでした(涙)。
中学時代
部活
・・・中学時代の部活としてテニス・マラソンを経験した後、サッカー部に入部、楽しくサッカーボールを追いかけていました。
実家の手伝い
中二の頃、実家の米穀商をしていた父親が病に倒れました。サッカー部を止め、家業を手伝い始めました。
その頃から、学校の授業が終わると父に代わり自転車で「米の配達」をして家業を手伝いました。
当初、何故か自転車の荷台に米を積んで配達する姿を同級生に見られるのが恥ずかしかったのを思い出します。
米の配達にも慣れてくると、配達先の家の中では「同級生の方が私に会うのを恥ずかしがっている」のに気づきました。
な~んだ、お互い恥ずかしがることは何もないではないか!(同級生は、私生活の中を知られるのを恥ずかしがっていたのでしょうね)。
それから配達する姿を見られる事の恥ずかしさは解消しました。(お互いに、悪いことをしているわけではないですから)。
その当時は終戦後とは言えまだまだ皆が貧しく、現在の様な生活レベルではない経済状況でした。
各家庭にお米を届けるまでは、同級生がどんな環境や家庭で日々を過ごしているのか考えたこともありませんでした。
<自動二輪免許取得>
お米は重く、自転車では一度に大量に運べず、配達回数が増えるだけで効率が良くないと思い始めました。
そこで、待ちに待った16才の誕生日を機に自動二輪の免許を取りました。
実は単車に乗る練習は、兄に手伝ってもらいました、中学生になってから実家にある「カワサキ・メグロ」を使いました。
近所の玉龍高校のグラウンドが暗くなるのを待ち、夜間練習をしていました。
当時は高校の門など閉めてなく、薄暗くなるまで近所の子供たちが自転車(三角股乗り)や野球の練習など利用してました。
高校時代
・・・高校の入学式の後、部活は体育系(水泳部)・文化系(ペンフレンドクラブ)に入りました。
体育系の部活
水泳部に入部
体育系の部活は、水泳部に決めました。水泳部を選んだ理由は、中学時代に痛めた腰の筋肉を鍛えるためでした。
実は、中学3年の冬休みの事でした。年末の米屋は、もち米や練炭の配達が加わり普段より多忙になります。
通常米の仕入れは、食糧販売組合の大型トラックが、各地区の米屋に販売用の米俵(60Kg)を届けに来ます。
そして、大型トラックの荷台から米俵を担ぎ、食料販売組合のおじさんたちと一緒に実家の精米機のある部屋まで運搬を手伝ったのです。
食糧販売組合のおじさんたちは、「そんな細い体で力があるなー」と、褒めてくれました(豚も褒めれば木に登る見本です)。
しかし、当時50kgそこそこの体では腰を痛めてしまい、その夜から丸3日間、寝込んでしまいました。
腰の痛みはすぐに治りませんでした。そこで、背筋のリハビリを兼ねて重いものを持たない水泳部に入部したのです。
水泳部では、3年の時キャプテンを任され県大会に出場。決勝ではビリから2番目(7位)でした。
<人生、二度目の命拾い>
運の悪い事にその決勝で残り50mのターンの時、空気を吸い込むタイミングで「しぶき」が喉に詰まりました。
いきなり飛び込んで来た「しぶき」に呼吸が出来なくなり、無呼吸で50mを折り返すしかありませんでした。
小三の時に溺れた体験をし、もう死ぬかと思うような二度目の危ない体験でした。
【ブロブ記事:幼少の頃、川で溺れて恐怖症。中3で金づち克服】に記載しました。
柔道の寒げいこ
毎冬、任意参加の校内行事で柔道の寒げいこがありました。年初の校内行事で、授業前の早朝練習です。
寒げいこに参加当初は、授業が始まる前の「起立・礼」の号令にやっと体が動くぐらいのハードな練習でした。
しかし、毎朝つづけていくうちに体が慣れて疲労を感じなくなる不思議な体験をしました。
それでも、TVのスポーツ競技に出てくる選手やオリンピックに出場するような選手のフィジカルは、
「凡人とは桁違い」であると認識させられました。
文化系の部活
ペンフレンドクラブに入会
・・・文化系部活では、ペンフレンドクラブに入りました。
学生の海外文通を支援するペンフレンドクラブなる世界規模の組織がありました。
私は登録者アドレスの中からノルウェーの16才の少女を選びました。
文通希望の手紙を出しましたが、相手から返事が来るまで、半信半疑でした。
しばらくして、遠い北欧の国から最初の手紙が届いた時の驚きと喜びが混ざった感激は今でも忘れません。
彼女との文通が思い出です(5年ほど続きました)。
世界第2位の経済大国?
そのころの日本は、ドイツをしのぎ経済的に世界第2位となるなど勢いのある時期でした。
しかし文通で判明した正直な感想は、北欧諸国のゆとりある日常生活と住宅事情(写真で見る居住環境)でした。
ペンフレンド(ノルウェーの16才少女)
送られてきた写真を見た時、小さなアパート群のどの部屋に住んでるんのかな?と思いました。
しかし、それはアパートではなく一戸建ての住居でした。木々に囲まれた個人所有の二階建てでした。
百聞は一見に如かず、当時の日本よりはるかに豊かで充実している生活環境とゆとりある驚きの生活でした。
例えば文通の日常のトピックスは、週末ごとのパーティーと近隣諸国への旅行が主でした。
エンタメでは「ビートルズ」?(当時の私にとっては、それは何?カブト虫という感じ)の話題が主でした。
<デビュー当時のビートルズのブロマイド>
イギリスの4人組バンド「ビートルズ」の日本初公演が東京・九段の日本武道館でありました(1966年6月30日)。
欧米のヒット曲が日本に浸透するのに約2年かかるんだな~が私の感想でした。
ノルウェーからの手紙でビートルズの話題がピークであり、こちらからのトピックスに困っていたころ頃、
こちら日本は、運良く「1964年TOKYOオリンピック」を迎えていました(ラッキーでした)。
日本から、東京オリンピックの記念グッズなどを送り、ペンフレンドに喜ばれたことが幸いでした。
坂本九の「上を向いて歩こう」の「スキヤキソング」も十分話題になりました。
<海外文通展の開催>
高校3年の時、市内の高校生ペンフレンドクラブ全体で海外文通展を、市内の大手デパート山形屋のギャラリーで開催しました。
各自の持ち寄った文通では、情報不足なので、日本にある外国の大使館に自国のパンフレットの展示をお願いしました。
言い出しっぺの私が、各国大使館からパンフレットを集める役目になりました。
各国大使館に展示会の趣旨と”貴国を知りたい・PRしたい”旨の文言を添え、パンフレットの出展依頼を発送しました。
幸運にも10ヶ国ほどのパンフレットがあつまりました。
中でもスイス大使館の充実した内容・誠実さがあふれた資料に感激しました。
何の見返りのないオファーに答えてくださった、スイスのお国柄に好感を抱きました。
展示会は地元の新聞も取り上げるほど盛り上がり、無事終了しました。
義務の枠を超えた親切な行動に感謝し、パンフレットを提供していただいた各国の大使館にお礼の手紙を送りました。
歌手の西郷輝彦さん。
・・・高校時代に忘れられない出来事がありました。
と言うのは歌手の西郷輝彦は高一年の時、隣のクラスにいたとの事でした。その時、私は彼の存在を全く知りませんでした。
<TVデビューと来校>
高2~3年の時、彼のマブダチK君と同じクラスになり彼の存在を知りました。
「今川(西郷輝彦の本名)が、ロッテ歌のアルバムでデビューするから見てくれ~!」との伝えで知りました。
ロッテ歌のアルバムで、西郷輝彦のTVデビューを見ました。「司会は玉置宏でした」懐かしい(笑)。
彼はデビュー後、しばらくして高校に挨拶に来ました。講堂に集まり、校歌を一緒に歌いました。
彼は練習の厳しいブラスバンド部に所属していたので、しっかり歌詞も覚えていました。
デビュー曲発表当時知られた曲は、未だ「君だけを」でした。
しかし、彼が言うには「今、もう既に16曲も吹き込んでいます」と聞いた時は驚きました。
「レコードを一枚買っていただくと自分に2.5円入るので宜しく」(笑)、とのことでした。
彼を応援する気持ちもあり、私は初めてレコードを買いました。「君だけを」が500円でした。
そして、彼が講堂を去った後、その場で解散を待っていると、生活指導の先生が雷を落としました。
「西郷輝彦の時は2分で講堂に集まったのに、先週の防災訓練の時は10分もかかった!」でした。
<東京の旅館で再会>
東京に修学旅行の時、私たちクラスが割与えられた宿泊旅館の部屋に西郷輝彦が訪ねてきました。
同じ部屋のK君(彼のマブダチ)に会いに来たのです。まじかで見る彼は、TV映りに比べはるかに痩せていました。
彼と目があった時、思わず大丈夫か?と聞いてしまいそうになるほど「ガリガリ」でした。
一緒に写真を撮りました。数日後「週刊誌に記事が載ったよ~」と、マブダチK君が呼び集めました。
旅館の部屋で西郷輝彦と一緒に撮った写真の記事をクラスの皆で回し読みしました。
家庭の事情や経済的理由などで中学・高校を卒業し、田舎から都会に出て、皆が頑張っている時代の一コマでした。
西郷輝彦さん訃報。
残念ながら2022年2月20日、彼の訃報がTV他多くのメディアから流れてきました。
西郷輝彦さんの訃報、残念です。再発率は少ないガンだけに残念です。
もっと見たかった聞きたかった歌手俳優でした。ご冥福を祈ります(合掌)。
実家の手伝い
実家の手伝いは、高校の時も続けていました。練炭の他、武田のプラシーなる飲料水も販売するようになりました。
約300件超の「お客様毎の米穀通帳」を備え、注文のあるお宅へ米を配達しました。
その配達先の勝手口での応対で感じる雰囲気は様々でした。「この人は立派な人だな」と思うことがあります。
それは、職業的・金銭的な優位に左右されず、「分け隔てなく敬意を持って相手と接する事のできる人」に魅力を感じました。
分け隔てなく敬意を持って相手と接する!社会人になってからの心構えとして大いに役立ったと思います。
特に、バブル崩壊後の債権回収に関わる問題解決の折衝に於いて、精神的に支えになってくれたと思います。
社会人生活
故郷の鹿児島から名古屋へ就職。
故郷を離れる不安もありましたが、都会で成長したいという希望の方が勝った時期でした。
当時の高校を卒業した半数は、県外への就職・進学が当たり前のような状況でした(福岡・大阪・東京方面が主でした)。
入社試験
・・・私は、某都市銀行の入社試験を福岡で受け、「運よく合格」通知を受け、入行しました。
「運よく合格」というのは、もう50年以上前の話なので、関係者にご迷惑のかかることがないと判断し記事にしました。
<試験の前日>
- 福岡で受験があり、受験会場前日に宿泊旅館に着いたのは我々高校から5名。すでに他県の生徒は夕食の最中でした。
- 九州地区の受験生は47名、眼鏡をかけ食事の部屋に正座し、行儀よく膳を口に運ぶ他校の受験生を目の当たりにしました。
- この中から5名のみが合格の模様。夕食の後、この状況での合格は困難と判断。福岡に到着日は、他校生2名と同部屋就寝。
<試験の流れ>
- 翌日の筆記試験の受験科目は、英・数・国・社、(商業高校生は、数学の代わり簿記でも可)。
- 午前中に筆記試験、午後から筆記合格者対象の面接が行われました。我が校生は5名中4名が面接へ。
<BK人事の方に提案>
- 面接の最後は私で受験番号は47番でした。面接が終り夕闇の迫る中、他県の生徒は帰路の準備をしていました。
- 私は、このタイミングで人事の方に「鹿児島は遠いので私たちはもう一泊させていただけませんか?」とお願いしました。
- 実は前日の就寝前、今回のBK合格は総合的に困難と判断しました。「鹿児島から出ていくチャンスは今しかない~だったら、福岡でスケートを体験して帰ろう」と相談しました。
<受験生5人、校長室に呼び出し>
面接試験後、その日は福岡の旅館で1泊。翌日、初めてのスケートリンクで念願のスケートを経験して鹿児島に帰りました。
次の日、通常通り登校。しかし授業前に校内放送で我々入社受験生は、校長室に呼び出しがありました(なんだろ?)。
学校側:開口一番でした!「昨日、君たちが受験を担当したBKの人事部の方が我が校にわざわざ挨拶に来られたぞ」。
我々:(エッ!)何のことか声も出ず。
BK側:BK人事部の方の話では、「生徒さんから申し出があり、もう一泊させていただくことになりましたので、宜しくお願いします」と、わざわざご報告に来られたぞ!。
学校側:受験を担当した人事部の方が昨日ごあいさつに来られたのに、なんで君たちが学校に来れないのだ?
我々:エーッ!ただただ沈黙~。校長室の床の板目がゆらゆらと揺らいでいるようでした。
先生方の中から、羽をのばしたのかな?との声が聞こえて来たこと以外は、何も覚えていません。
後悔!私達の個人的な思い付きで、銀行・学校・友人・後輩の就職に大変ネガティブなことをしてしまいました。
<合格発表>
1か月ほど経ったある日、授業前にクラス担任から「私が、○○BKに合格した」との発表がありました。
面接を受けた4名全員が合格でした。なんという幸運でしょう!BKの人事関係者・学校の先生方に感謝!感謝しかありません。
同級生・後輩にも迷惑かけずに済み、先ずは安堵しました。クラスの窓から見た、初夏の澄んだ青空を思い出します。
卒業を前に高校内に張り出された就職先は、日本を代表する金融・保険・証券、商社・家電メーカー・建設業・百貨店・外食産業他、
有名企業が名を連ねてました、日本中が勢いのある時代であった頃を思い出します。
某都市銀行に入行
鹿児島駅から夜行列車に乗り、22時間かけて名古屋駅に到着したのを思い出します。
名古屋駅にそびえる大名古屋ビルヂング(12階建て)が印象的でした。
その後、建て替えられた現在のビルは、周囲を含め高層ビル群の一つになりました。
当時は、屋上のビアガーデンマイアミは大勢のお客でにぎわいました。懐かしいです(笑)。
*マイアミは、2013年5月に名古屋三越栄店の屋上にて移転開業(ステージでのパフォーマンスも魅力)。
<建替え後(2016年3月)の大名古屋ビルヂング>
地上34階、地下4階、高さ174.7mの超高層ビルです。 建物はオフィスや商業施設「ISETAN HOUSE」などで構成。
下層階は、旧建物の名残が遺してある感じです。手前は名駅前広場、右奥は桜通りへ続きます。
独身寮生活~結婚・転勤・自宅建設
名古屋市内で寮生活を開始しました。その後早々に訪れたのは、美術館とプラネタリュームでした。
3回訪れたルノアール展、ルノアールの実物の作品の色と筆遣いに魅了されました。
プラネタリュームのスケールに感激しました!大都会の充実した施設を堪能しました。
初勤務は同市内の店舗でした。その勤務地は愛知県内(中村・本部・大須・笠寺・春日井・豊橋東・新城・勝川)の転勤でした。
出向前まで8回の転勤でした。その間に結婚し子供が二人の四人家族となり、30代で現在地に自宅敷地を購入しました。
40代で自宅を自ら設計し、そのプランを建築業者が気に入りそのま建てました(三つの設計ミスと対策、ご参照ください)。
<三つの設計ミス>
①廊下側の幅90㎝、②居間の通風孔の位置、③お風呂場のコーナーの大窓。
<設計ミスと対策>
①120㎝以上が必要→収納スペースとして使用中、②エアコンで解決、③お風呂は全面リフォーム(ユニットバス)で解決しました。
銀行業務の推移
・・・銀行の最初の配属の支店は名古屋市内でした。仕事は、お札の整理に始まりました。
<父親が他界と香典の整理>
私が結婚する直前25歳の時、父親が他界しました。
実家は米屋を営んでいました。私がBK勤務とのことで香典の整理を任されました。
お札の量に関わらず、札整理は入行の時訓練されます。その時の訓練・自らの練習が思わぬところで役に立って安堵しました。
大切な葬式で、親戚の前で恥をかくことがなく処理でき、やっておいて無駄な事はないと思いました。
<内部事務~融資業務>
その後、内部事務・受付窓口係・外回り渉外、そして念願の融資業務を担当することとなりました。
業務上の知識を深めるため、宅地建物取引主任者試験・個人情報取扱主任者試験の取得などありました。
職業柄、不動産・建築業者との接点があり、その流れで自宅敷地の購入・自宅の設計を経験に至るまで貴重な体験をしました。
【ブログ記事:自宅を設計、5つのプラン。建築基準法他5つのチェック】に記載しました。
融資業務を担当していたころ高度成長期でしたが、やがてバブル崩壊がおとずれました。
そして債権回収のTVドラマさながらの実体験をしました。
債権回収は様々な事情と問題解決に困難な状況・交渉が存在します。
でも人と接する基本は変わりません、どんな相手でも敬意を払い丁寧に対応する。
この心構えは、問題解決に大いに役立ち私を精神的に支えてくれ、当時の仕事仲間と同様に感謝しています。
関連会社に出向
<業務内容>
・・・50才になる前、某銀行の関連会社に出向になりました。住宅・アパートローンの担保評価・審査のセクションでした、
暫くして、ベテラン社員の退職があり、彼が担当していた相続問題の未解決・イレギュラー案件業務を担当することになりました。
<メガBK合併>
その後のメガBK合併は関連会社にも影響大でした。
特に事務システムの統一には、経験から言えますが合併される方は多大な労力を要しました。
合併される側の事務方(企画・システム・オペレーション)の苦労は、表に出ませんが大変ハードであることを経験しました。
しかし合併時の最優先は人事より、困難であるのが「事務システムの統一」です。
これをおろそかにすると、未来永劫システム障害に悩まされ、トップの人事面も巻き添えを食うと思います。
通常の合併は、力関係の順位がはっきりし事務がどちらかに統一されます。
しかし、似通った力関係の三つ以上の合併の場合は事務統一がより困難が予想されます。
定年退職 後
・・・63才で退職~現在(2021年8月、75才)に至るまで。
カルチャーセンター
・・・63才で退職~現在(2021年8月、75才)に至る。その前に55才の時、カルチャーセンター通いを始めました。
因みに、カルチャーセンターは、木版画教室・フラメンコギター教室・料理教室・英会話教室を経験しました。
木版画
カルチャーセンターで、今も続いているのは木版画教室です(笑)。
<公募展、初出品・初入賞>
水彩協会展(版画部)初出品、初受賞(新人賞)。
国画会(版画部)には、2011年初出品から2021年までお世話になりました。
その間、初出品で幸運にも初受賞し、その後5年連続入選し会友に、2017年には国画賞を受賞し準会員に推挙されました。
カルチャーセンター通いから始めて、日本最大の公募団体の大賞を受ける、夢のような出来事でした。
カルチャーセンターの先生方・仲間たちに大いに感謝し、大変光栄で嬉しい思い出になりました。
現在では水彩協会版画部に所属、同協会の審査員とその他グループ展、企画展への出品活動をしています。
健康面
後期高齢者の仲間入りをさせていただいた現在、病院の診察券も増えてきました。
今では、体力的にもいつまでもこのままの健康が続かないだろうと実感しています。
そこで、自分のスキルでなにがお役にたつのだろうかと顧みました。
趣味の中でも、体力的に続いているのは木版画くらいかなと思います。
ブログに挑戦
・・・パソコンをしっかり身に着けてない状態で退職した現在、SNSなどの情報難民になりたくないと思っています。
ブログの内容
ブログ発信で皆様のお役に立てばとの観点から、これまで身に付けた木版画のスキルをコンテンツにしました。
パソコンのスキルアップも兼ねて、アート・木版画を中心にブログの発信を続けています。
木版画のスキルアップのつながる記事を、より充実したいと思っています。
ブログ状況
絵画展を中心に作家さんの個展も積極的に取り上げています。
ブログを初めて1年半で一万・二年(2023年9月)で三万ビューを越えたころです。
最近は、主に木版画技法・グループ展・個展を取り上げ記事にしております(ブログ:utamaro758)。
特に、「苦労して開催した個展の記録が残る」と、多数の作家・関係者の方々から好評であり手応えを感じています。
ブログは、「個展を見にこれなかった遠くに住んでいる知人・親戚にも見てもらえた」と大変喜ばれるようになりました。
これからも愛される有益なブログを目指し充実したいと思います。最後までご覧いただきありがとうございました。
番外編1.母をしのんで、2.やなせ たかし「孝行」
番外編1、母をしのんでと番外編2、やなせたかしさんの「孝行」と合わせ投稿しました。
番外編(1)、母をしのんで。
入院時の出来事
1906年明治生まれの母は、80歳で他界しました。私が40歳の時でした。
他界する数年ほど前に入院したとの便りが実家から届き、久々に帰郷し病院に見舞いに行きました。
携帯の無い昔の事なので、事前に日時など何の連絡もしていませんでしたが、相部屋の病室に入るなり、
窓際のベッドで目を閉じ横たわっていた母が、私がベットに近づく前に「○○○ちゃんね」と私の名を呼んだのです。
個室でなく相部屋なのに、なぜ私が病室に入りベットに近づく前に私だとわかったのだろう?。
足音?気配?今でも不思議です。認知症のないすごい母でした。
幼少期の出来事
私が3~4歳の頃、父がミカン山の一部を所有していたことから一家はその麓にある小屋に住んでいました。
或る日の夜、寝ているときでした。玄関横にある台所の引き戸と柱を括り付けていた防犯用の紐(ひも)がありました。
その紐を、何者かが包丁のような刃物で外から「ごしごし」と切ろうとしているのです。
弟が生まれる前の私は、母と同じ布団で台所に一番近い場所に寝ていました。
私と母は、その「ごしごし」の音に気づきました。私は母にしがみつき、こわいのみでした。
「ごしごし」とする物音と共に暗い闇の中でその刃先が動いているのが見えました。
母が大声で「だいかー!(誰だー!)」と、叫んだのです。その声で皆が起き上がりました
「ごしごし」の音が止みました、何者かが侵入をやめ逃げたのでしょう。
防犯用の紐は、刃物で切れかかっていました。その日から夜は、ローソクを止め電気をつけて寝るようになりました。
何が楽しかったのだろう
母は、戦中・戦後をはさみ食料難の中、男6人女1計7人の子供を産んで(長男は病死)育て、
大変な時代を生き抜いて80歳で他界しました。
父は、16歳で親を亡くしてから10年ほど経過し、母と結婚しました。
分家の次男で親からの財産はなく本家(=食品会社)の下で働き生活(その間ミカン山を購入)していました。
結婚した時は、母も当時公務員(専売公社)で生計を支え、共働きのスタートだったそうです。
父と母の蓄えで何とか食糧販売の権利を手に入れ、米屋の開業(従業員3名)。以後皆で大所帯を支えてきました。
母は小さな体で、炊事、洗濯、掃除、餅つき、味噌作り、魚裁き、家族の縫物、諸々をこなしていました。
長患いもせず朝早くから夜遅くまで働く姿を思い出します。
結婚してから、出産・子育て・仕事、そして米屋の開業と日常に追われた生活の中で息つくまもなかったのではないか。
「母は何が楽しかったのだろうか?」私は就職で故郷を旅立つ前に、何気なくその事を聞いてしまいました。
すると母は、「子育てをしている時期が一番楽しかった」と、笑顔で答えました。すごい強い人でした。
この番外編を書いた切っ掛けは、高知県に旅行した版画仲間から、やなせたかしの詩集を見せてもらった中で、
「孝行」の詩の一説に、私が母に言われたことがそのまま書いてあったからです。
それは、「あなたのお産はとても楽だった。小さく生まれてきたので私は苦しくなかった」でした。
この通りの言葉でした。次の番外編(2)でやなせたかしさんの詩「孝行」を掲載します。
番外編(2)、やなせ たかし 「孝行」。
・・・1919年高知県出身。漫画家・詩人・絵本作家。
詩「孝行」
母親は僕に何度も言った あなたのお産はとても楽だった
あなたは両手の手のひらにのるほど 小さくうまれたので
私は少しも苦しくなかった 苦しくなかった
今のところ僕の孝行は これしかない
もっと孝行して 喜ばせたかった
やなせたかし:2013年生まれ、94歳で他界。
番外編(2)まで読んでいただき、重ねてお礼申し上げます。ありがとうございました。