アート

銅版画家「鈴木孝太朗遺作展」:作品(製法)、油絵、画歴(受賞・メディア記事)、随想と版画伍人展。

写真:2017年4月30日(鈴木孝太朗作品集より)。

 

・・・鈴木孝太朗氏は、版画伍人展の中心人物として第33回から同展でご活躍されていました。

わたしは、第59回2019年から新規に伍人展に参加のご縁を頂きました。

それから間もない年の、2021年6月22日の第61回伍人展搬入日でした。

鈴木孝太朗氏の代わりに奥様が搬入にいらっしゃり、「鈴木孝太朗氏の突然の逝去」の知らせを受けたのでした。

メンバーには衝撃と悲しみの搬入作業でした。しかしながら、ご主人の突然のご逝去にも関わらず、

奥様は作品を車に積み、搬入の手配・手伝いをされ、その気丈な振る舞いにメンバーは感動を覚えました。

写真:鈴木孝太朗作品集(発行鈴木照美:2022年6月)。

 

又、一年忌を迎えた今月に此度の「鈴木孝太朗遺作展」(2022/6/22~28日)を開かれています。

加えて、鈴木孝太朗作品集の編集・発行まで実行された奥様のパワー作品を通じた絆の深さに感動します。

「鈴木孝太朗遺作展」作品(製法)

・・・このブログも、できる限り鈴木孝太朗作品集(発行:鈴木照美)に基づき記事を編集しました。

作品(メゾチント)

写真:ノーチラスM・V。

 

 

写真:Nauthilus・M・16。

 

製法(メゾチント)

・・・銅板の表面全体にロッカーで細かい傷をつけ、明るく摺る部分を削り平滑にして摺る銅版画。

写真:手前は、メゾチント用のロッカー。写真の奥は銅板。

 

写真:後日訪廊時にロッカーのカバーが外してありました。

 

作品(アクアチント&エッチング)

・・・アクアチント、エッチング等を併用した独自の技法による多版多色刷りの銅板画。

写真:’96 N・ASKA・MANDARA・1。

 

 

 

写真:’97・ N・ASKA・MANDARA・1。

 

 

写真:N・ASKA・MANDARA・L-1。

 

製法(アクアチント)

・・・アクアチントは、凹版画において、金属版を腐蝕させて製版する腐蝕技法(間接凹版技法)のひとつです。

版面に松脂アスファルトの粉末を撒いて加熱定着、腐蝕させることで多孔質な版面を作り出します。

こうしてできた版は、エッチングでできる線の表現とは違い、面で水彩画のような濃淡の調子を表現することができます。

 

写真:N・ASCA・L-114。

 

写真N・ASKA・L-208。

 

 

写真:N・ASKA・L-211。

 

製法(エッチング)

・・・まず金属板(一般に銅板。亜鉛板、古くは鉄板も使われた)に耐酸性の防蝕剤を塗布して乾燥させます。これをグランドと呼びます。

この上からニードルなどの尖った道具で引っ掻いて描画してから腐蝕液に浸せば、グランドが剥がれて金属が露出した部分のみが凹みます。

グランドを取り去った版にインクを乗せ、プレス機にかけて印刷します。

手の動きに制約がなく、デッサンと同様に自由に描くことができるのが大きな特徴です。

16世紀初頭のドイツに始まったとされ、17世紀に最盛期を迎えました。

専門的な版画家としてこの技法を確立させた作家としてまずはJ・カロの名が挙げられます。

そしてエッチング、ひいては版画全体を自立した芸術表現に高めたのが、レンブラントです。

 

写真:N・ASKA・L-214。

 

写真:N・ASKA・L-902。

 

 

「鈴木孝太朗遺作展」油絵

・・・昭和高校、YAG美術研究所、名古屋造形短大の学生時代に描いた油絵作品の一部です。

 

写真:赤い市電(16歳)。

 

 

写真:みかんを持つ女性(18歳)。

 

 

写真:大ビンとオウム貝(19歳)。

 

画歴(受賞・メディア記事)

・・・画暦の表示:左側に年度、その右側に受賞・入選暦など記入しました。

又、画暦の都度に出来事を画像・記事など挿入しました。画業の流れのイメージに役立てば幸いです。

1956(S31年) 名古屋市に生まれる
1978 名古屋造形芸術短大(版画専攻)卒業
1979 中部春陽会展新人賞受賞春陽会。
1979~80・81・87 水彩協会(版画部)受賞
1979~97 版画工房もく展
写真:版画工房もく展(愛知県美術館)

 

1980 第2回中日展佳作賞受賞

水彩協会(版画部)会員推挙

銅版画6人展(東京銀座・養清堂)

1981 個展(はくぜんサウスギャラリー)

個展(東山山はギャラリー)

1982~ 第59回春陽展(版画部)
1983 個展(はくぜんサウスギャラリー)
1984 個展(ギャラリーロリゾン)
写真(1984年7月):オーム貝と遺跡、毎日新聞(夕刊)。
1985~ 現代版画NAGOYA
1986 ’86版画「期待の新人作家」大賞展
1986・88・92 カダケス国際ミニチュア版画展(スペイン)
1986・87・91 版画大賞展(東京)
1987 ミニチュア国際版画販ビエンナーレ(USAコネチカット)

個展(画廊窮(キュウ))

1988 カダケス国際ミニチュア版画展(スペイン)

メゾチント作家特集展(神戸・アートギャラリータピエス)

写真1988年):カダケス国際版画ビエンナーレ受賞通知。
1990(平成2年) 1990年国際版画展(USAニューヨーク)

個展(アートスペース・アサヒ)

個展(画廊窮(きゅう))

個展(スペインカダケス・Adogi Taller Galeria Fort)

1991 水彩協会(版画部)委員推挙

個展(ギャラリーA・C・S)

1992 韓・日現代版画交流展(ソウル・新世界美術館)

二人展(浜松・Constellation Ma-hito)

現代版画ナゴヤ ’92タイ・ナゴヤ国際版画展

1993

 

個展(ギャラリーA・C・S)

第15回記念中日展受賞作家展

現代版画ナゴヤ’93ハンガリー・ナゴヤ国際版画展

1993~ 版画伍人展(愛知県美術館)
写真:上・ニューヨーク(USA)1990年、左・Prints intemational1990展覧会カタログ、右・イスラエル The Tikotin Museum 収蔵通知 1989年。

 

写真:季刊「美術家」第32号1990年秋。

 

1994 個展(中部電力ハーモニープラザシーズ)

個展(アートスペース・アサヒ)

1995 二人展(はんがROOM MTO-4 周年記念)

個展(ギャラリーA・C・S)

現代版画ナゴヤ’95 バルセロナ・名古屋国際版画展

 

1996~98

第73回・74回・75回春陽展(版画部)奨励賞受賞
1996 ’96春陽会受賞作家展(東京銀座・ギャラリーうぇすと)
1996・97 二人展(名古屋都ホテル)
写真:春陽会授賞式。

 

1997・99 個展(大黒屋画廊)

個展(岡崎・INTERIOR H&S)

1998 水彩協会メキシコ展 オアハカ市版画交流展(メキシコ)

「版画伍人展」が愛知県芸術文化選奨 文化賞を受賞

1999 春陽会会員推挙
2001・04・07・09・13 個展(大黒屋画廊)
2004 二人展(はんがROOM NTO)

個展(人人ナイトギャラリー)

写真(2011・13年):中部研究会 版画講座。

 

2005 15th International EX Libris Competition(ベルギー)
2006 個展(四日市・四郷版画館)
2014 くも膜下出血及び心臓手術で2回入院
2021.6(令3) 急性大動脈解離により死去 享年64歳
  • 個展:(名古屋、スペイン他)計20回以上開催
  • グループ展:団体展 多数出品
  • 収蔵:イスラエル The Tikotin Museum of Japanese Art
写真:NOAH 1988年。

 

2021年12月、中部春陽年展

同人(故鈴木孝太朗氏)展示。

展示作品(下記2点)

 

随想と版画伍人展

・・・版画伍人展は1993年から参加され、2021年6月逝去されるまで実に28年間、長年にわたり、

版画伍人展の中心作家のひとりとして活躍されましたが、多くのファンに惜しまれながら逝去されました。

鈴木孝太朗氏は、版画伍人展の冊子に随想を寄稿されております。

随想を参考にされ同氏の作品に対する考えが深まる一助となれば幸いです。

第40回記念版画伍人展

写真(左):第40回 2000年、愛知県美術館。

 

随想、第40回記念版画伍人展 冊子寄稿

NARA 鈴木孝太朗。

・・・私はかって存在したといわれる「アスカ文明」を信じる一人である。

紀元前7~8千年前の文明で今はインド洋の海底で眠っている。

この文明は人々が空を飛ぶことが出来たという説もあり、

その子孫たちが世界中に散らばった名残が南米ペルーのNASUKA(=NOTASUKA)や日本のアスカであるという。

そんな興味もあって年に4、5度は奈良を訪れ、のどかでゆったり滔々と流れる時間を追体験することにしている。

飛鳥は日本で最初の都市であり、巨石文化と聖徳太子が導入した「搭」を中心とした仏教文化

木の文化が共存するいわば日本のへそのような不可思議で色々な意味で興味深い土地だ。

大官大寺跡、法興寺跡(現飛鳥寺)、川原寺跡、山田寺跡、奥山久米寺跡、

等々これらの立派な礎石や搭心礎(九、七、五重ノ搭の中心土台石)を見ていると、

悠久の時を感じ、自分は大自然、宇宙の一部であり、自分の存在の小ささや儚さを実感する。

その大自然、宇宙からイメージやパワーを得て自然体で生きてゆきたいのだが、

この慌ただしく時間に追われる現代社会に生きている限り無理な話であろうが・・・。

先日久しぶりに東大寺を訪ねた。南大門、仁王様の大きさ迫力に圧倒された。

そして中門前の両脇に東西七重ノ双搭の土壇跡がある。総高は100.59m、法隆寺五重ノ搭の3倍以上あったという。

土壇の上に立ち、往時の姿を想像して感動。心をリフレッシュ。(2000年版画伍人展冊子)。

第48回記念版画伍人展

写真(前列右):第48回 20008年。

 

随想、第50回版画伍人展 冊子寄稿

己表現の源流 鈴木孝太朗

・・・版画伍人展と私の馴れ初めと言うと、学生の時の創立メンバーの佐藤宏先生が木版の特別講師としてみえ、

彫りや摺り、バレンの作り方のレクチャーを受けたことに始まる。

その時のはにかんだ表情は今でもはっきりと思い起こされる。

またあ岩田覚太郎先生のお宅にお邪魔して収集された作品を、一日中鑑賞したことがあった。

そして実家の玄関の壁には父が収集した佃正道先生の「百済寺三重之搭」が掛けてあった。

こんな御縁があって第33回展より入会させていただいて現在に至っている。

さて私は幼少の頃から単純なせいか高い建造物に心惹かれてきた。

仏塔や楼閣、尖塔、御柱、山車など、天と地を結ぶものである。

’09年末には、邪馬台国論争を巻き起こしたマキムク遺跡のある奈良県桜井市の吉備池庵寺跡を訪れた。

塔跡の土壇から計算すると総高は百メートル以上で九重之搭だったらしい。

このことから平城京以前の藤原京大官大寺前身の百済大寺であろうと推測されている。

現代の高層ビル二十五階ほどであろうか。現地に立ち、いにしえの空間を想像している時が嗚呼・・・至福・・・。

そして今年の正月には奈良の姉妹都市、韓国の慶州を訪れた。

世界遺産の石窟庵や仏国寺の壮大な伽藍に興奮し、三重之石搭、多宝石塔両搭は興味深い物だった。

また大蔵経の白樺版木が八万余り現在している海印寺は百三年ぶりの寒波で入山禁止になってしまった。残念。

しかしとにかく寒くて食べ物は辛い!。・・・辛い。

こんな調子でストゥーバ(卒塔婆)を探訪する激安ツアーはまだまだ続きそうだ。(2010年版画伍人展冊子)。

第60回記念 版画伍人展

第60回記念版画伍人展、出品者。

  • 写真前列左から:鈴木孝太朗・米倉泰民・藤崎増男
  • 写真後列左から:吉川房子・杉藤万里子・波多野豊子
写真(前列左):第60回 2020年。

 

随想、第56回版画伍人展 冊子寄稿

或日突然 鈴木孝太朗。

・・・「馬鹿になってしまった」

一昨年半前の猛暑の日、徐々に呂律が回らなくなって、これは不味いと思い自転車で病院へ。

CT検査の結果、くも膜下出血で即集中治療室へぶち込まれてしまった。

自分の体からはパイプやコードが絡み合っている。その姿を俯瞰しているような不思議な体験もした。

血管が細い私は四時間ごとの点滴がつらく一分一時間の長いこと、長いこと、修行の日々が二か月続いた。

その二か月後にも心臓の手術のおまけまでついてきたのであった。

話は変わりますが、先日奈良二上山山麓の当麻寺を訪れました。

これが四度目である。古代天平時代より東西両搭存在する寺院が二版ではここだけである。

来訪するたびに見るものが違ってくるのは不思議だ。また近隣の石光寺の境内には飛鳥藤原京の本薬師寺や、

御所(ゴセ)、市南部の巨勢(コセ)寺跡の搭心礎に匹敵する立派な意思が残存している。

五重搭以上のものであろうか。当時の風景をまはろぶ時が至福の時空となる。

卒展以来ナスカをテーマに表現してきたが、ここ二十年はマンネリ化で惰性で作品が出来上がってしまう。

馬鹿になってしまったことで真摯に作品に向かい合うことが出来るだろうか。自分に期待している。(2016年版画伍人展冊子)。

「鈴木孝太朗遺作展」のまとめ

・・・鈴木孝太朗さんの訃報に、多くの版画家が衝撃を受けました。まず新聞記事を取り上げます。

続いて、孝太朗氏を偲ぶ寄稿奥様のあとがきと、「ギャラリーコンサート」の記事へ進みます。

鈴木孝太朗氏遺作展、新聞記事

・・・「銅版画に捧げた半世紀」の見出しで、遺作展が新聞に掲載されましたので一部紹介します。

写真:鈴木孝太朗、銅版画に捧げた半世紀。

 

・・・昨年6月に64才で急逝した名古屋市東区のの版画家・鈴木孝太朗さんの一周忌に合わせた遺作展が、

同市千種区今池のギャラリー「5/R Hall&Gallery」で開かれている。

遺された作品約千点の中から、妻・照美さん(65才)が選んだ百点を展示。

銅版画の表現を追求した半世紀近い画業を伝える。孝太朗さんは同市出身。

名古屋造形芸術短期大学(現名古屋造形大)で版画を学び、卒業後は「春陽展」など公募展での入選を重ねた。

東海地方の版画グループ展「版画伍人展」にも出展。精力的に作品を発表してきたが、

昨年6月22日、「版画伍人展」の展覧会を翌日からに控える中、急性大動脈解離でなくなった。

悠久の時間や宇宙観に関心を持っていたという孝太朗さん。

作品には「生きている化石」と呼ばれるオウムガイや、飛鳥時代の寺院の文様などが重なり、幻想的な世界を作り出している。

生涯かけて銅版画に打ち込んでいた作家の営みを伝えられたら」と語る。28日まで。(2022/6/25日、中日新聞)。

鈴木孝太朗氏を偲ぶ

・・・孝太朗じを偲んで春陽会の船戸郁子氏が、「春陽帖」に寄稿されましたので紹介します。

突然の訃報に、この地区の版画家が受けた衝撃と喪失感は計り知れないものでした。

銅版画の人は勿論、木版画の人もシルクスクリーンの人も春陽会の人のみならず、国画会の人も水彩協会の人も・・・

そして12月、初めて孝太朗さんのいない中部春陽年展を迎えました。

いつも当たり前のようにそこにいて様々な支持を出してくれていたのに。

けれど、控えめで人の前に立つのが苦手な彼は、私達後輩のために、ずいぶん頑張っていてくれていたのだと思います。

ただやさしくて温かみのある人柄は、作品にも表れていたように思います。

以前、彼の個展でナスカと飛鳥をモチーフにしたブルー系の中にほんのりとオレンジを重ねた、

深淵な作品に囲まれていたら、何か、心の中にぽっと灯りが点ったような感覚を覚えた事がありました。

奥様も最初彼の作品に惚れ込み、「あの作品の方ですよねぇ、と私から声をかけたの」とおっしゃっていました。

奥様は作品を見る目も人を見る目もあったんですね。

8月に孝太朗さんのアトリエを訪ねた折、同行した銅版画の先輩が「孝太朗さんの作品はほかの人では摺れないからねぇ」と残念そうにおっしゃっていました。

凹版の上にローラーで色を重ねる手法は、私も孝太朗さんに教わりましたが、あの微妙な調子にはとてもとても届かない・・・。

初期のメゾチントの作品を思い起こし、あの強固な基盤の上にあの柔らかな色が乗っているんだなぁと感じます。

今頃、天空のどこかから子供の頃から彼の心を捉えて離さなかったナスカの地上絵を、

心行くまで眺めているに違いありません。(春陽会発行「春陽帖2022」船戸郁子)。

遺作展「あとがき」

・・・鈴木孝太朗作品集、奥様の「あとがき」を掲載したいと思います。

2021年6月22日、第61回版画伍人展の搬入日、深夜の救命救急室で、夫・鈴木孝太朗は一人旅立っていきました。

あまりにも突然で、別れの言葉さえかけることが出来ませんでした。

この一年間はいなくなったという現実を受け止め切れない日々でしたが、遺作展の開催が決まってからは、とても慌ただしく過ぎて行きました。

私にとっては夫の画業を振り返り、あらためて銅版画家・鈴木孝太朗と向き合う日々でもありました。

家業の建築塗装業と銅版画家、二足のわらじの人生でしたが、

本人にとっては銅版画と接している時間が一番充実した、自分らしい幸せな時間であったことと思います。

遺作展の準備をする中で、家の中では知らなかった姿を知り、こんなにも多くの方々にお世話になり、支えられ、また慕われていたのかと改めて気付かされました。

お世話になった皆様に心より御礼申し上げます。文字道り命を削って銅版画と真摯に向き合い、不器用に、寡黙に、

執拗に銅版画の道をひたすら歩み続けた鈴木孝太朗の作品と人生を心に留めていただけましたら幸いです。(鈴木孝太朗作品集「あとがき」鈴木照美)。

ギャラリーコンサート

・・・遺作展の期間中の6/26日、伊藤史和氏によるギターのギャラリーコンサートが催されました。

写真:ギャラリーギターコンサート好評の第一部が終了。第二部までのひと時、(左)ギター演奏者伊藤史和氏と鈴木照美さん。(至福の音色と企画に感謝!)。

 

伊藤史和氏は奥様のウクレレ教室の講師であるご縁で、今般のギャラリーコンサートが無料開催されました。

予約は当初20席用意されましたが、好評で同日20席追加の2部の催しとなりました。

演奏曲目はジャズ&ボサノバが中心でしたが、奥様のリクエストによる荒井由実(現松任谷由実)の曲や「糸」など。ギター好きの私には至福の時間でした。

印象的だったのは、伊藤氏ともお話ししましたが、ギャラリーの構造からかギターの音色がとても良く響くホールでした。

そして、私的にはアンコール曲イエスタディが印象に残りました。以上、遺作展に加え、ギャラリーコンサートも満喫しました。(感謝!)。

遺作展に寄せられた「お花」

たくさんのお花が寄せられましたので、順不同にて写真を掲載します。

芳名録と孝太朗氏の写真

寄せられた「お花」

鈴木孝太朗氏との思い出

・・・わたしは、第59回2019年から新規に伍人展に参加・出展を機に孝太朗氏とのご縁を頂きました。

その間忘れられない思い出は、「自分自身の作品がマンネリ化していると感じる」との悩みを孝太朗氏に打ち明けました。

孝太朗氏からのお答えは「では、僕はどうなるの?」と、温かくかつ含蓄のある励ましの言葉をいただきました。

あんな凄い作品を長年にわたり次々と創作されているにも関わらず・・・。

「みんなそうだよ。まだまだ早い、もっと悩まないと」と、言われたようで大きな勇気を頂きました。

それから間もない年の、2021年6月22日の第61回伍人展を控えた前日、残念ながら逝去されました。(合掌!)。

最後まで読んでいただきありがとうございました。