稲沢市に住むSNS仲間から、荻須記念美術館で「藤島武二と大川美術館コレクション展」開催の情報がありました。
早速同展を鑑賞した後、情報に感謝を込めて記事にしました。
藤島武二は、私の実家の隣町出身で、同郷の黒田清輝・東郷青児とともに日本の洋画の発展に貢献した画家として認識していました。
- 開催期間:2022/10/12~12/4。
- 開催場所:稲沢市荻須記念美術館。
- タイトル:藤島武二スケッチ百花。
藤島武二 スケッチ百花
・・・藤島武二(1867~1943)は、女性や花、風景などを優美かつ力強く描いた作品で知られるだけでなく、
東京美術学校(現東京藝術大学)で教鞭を執り、荻須高徳をはじめ優秀な画家を育てた指導者としても大きな功績を残しています。
洋画家を志した青年期
・・・藤島武二は当初日本画を学んでいましたが、洋画を描くようになったのは1885(明治18)年の二度目(18才)の上京後の事です。
その後、洋画家・山本芳翠の生功館画塾に入って本格的な勉強を始めて1891(明治24)年、明治美術会に入会しました。
桜の美人
油彩画(桜の美人)は、藤島が洋画を描き始めたころの作品です。
緻密な筆遣いには山本芳翠の影響が見られ、明るい色彩で描かれています。
この作品は花見をする御殿女中という同様の画題を描いた大作(桜狩)1893年、(関東大震災で焼失)の関連作とみなされています。
ペン画の(桜狩・夫人立像)などはこれらのためのスケッチと考えられています。
1893(明治26年)から、藤島は助教授として三重県尋常中学校(津市)に赴任しました。
その後、1896(明治29)年に黒田清輝に推薦され、
東京美術学校に新設された西洋画家の助教授に岡田三郎助、和田栄作とともに任命されます。
同年白馬会の創立会員となり、同会展への出品も重ねてきました。
外国留学から壮年期
ヴェルサイユ風景(フランス)
藤島は1905(明治38)年末、38歳の時に日本を発ち、
文部省外国留学生としてフランスとイタリアでそれぞれ2年間を過ごしました。
20世紀を迎えたフランス美術界は折しもフォーヴィスムなど様々な動向が混在していた時期で、
「パリ画壇は百花の一時に咲き誇った時代であった」と述べ、
没して間もないセザンヌの遺作展を訪れたことや後期印象派の画家らと接したことを挙げています。
ローマの噴水(イタリア)
イタリアでは「殊に古い文芸復興期前後の芸術に靈(たましい)の踊るのを感じた」と記し、
コルモンの紹介によりアカデミー・ド・フランスの院長で肖像画家として知られたカロリュス=デュランに学んでいます。
留学中の作品としては、(黒扇・1908~09年)などが知られていますが、
それまであまり作例の無かった風景画が制作されるようになったことも注目に値します。
特にイタリアでは遺跡や寺院、水辺や糸杉などを描いており、藤島の風景画は新たな展開を見せます。
油彩画(ローマの噴水・上記写真)もその一つです。抑えた色遣いで、穏やかな雰囲気が感じられますが、
よく見ると絵具が様々な向きで重ねられており、噴水を前に盛んに筆を動かす画家の姿が目に浮かびます、
渡欧を機に藤島の画風は変化し、
力強い筆致で対象の存在感を描き出すようになりました。(以上、藤島武二 スケッチ百花より抜粋)。
匂い
1913(大正2)年初めて朝鮮半島を訪れて以降、
藤島は主に公務により訪れた東アジア諸国の風物に惹かれ、
アジアの風景や女性を描くようになります。
特に女性像においては、西洋由来の油絵によって東洋の女性美を表現する試みが行われています。
その起点とも言える作品が油彩画(匂い)です。
藤島によれば女性の前に置かれているのは嗅煙草(においたばこ)の容器で、
テーブルクロスや服の模様などに花のモチーフが散りばめられており、
嗅覚というテーマとともに、ピンクを主体に様々な色が混ざり合う色彩にも注意が払われています。
晩年の風景画
海・日の出
太陽が水平線に現れる直前の一瞬が捉えられています。
「海の色彩は誰でもが経験する通り、朝夕と細かに観察すると妙味は尽きない」という藤島の言葉からも窺えるように、
油彩画(海・日の出)では絶妙な色遣いで海面に光が満ちる様子が表現されており、清澄かつ厳正な空気が伝わります。
1928(昭和3)年、昭和天皇の即位を祝して宮中の学問所に設置される油彩画制作を皇太后府から委嘱され、
藤島は画題を日の出と定め、1937(昭和12)年末に完成。
さらに1931(昭和6)年には紀伊半島の潮岬を題材とした宮中の花蔭亭のパネル製作(同年末に完成)も委嘱され、
これらをきっかけとして藤島は1934(昭和9)年に帝室技芸員に任命され、
1937(昭和12)年には竹内栖鳳、横山大観、岡田三郎助らとともに第1回文化勲章を受章しています。
そして、1943(昭和18)年、75才で日本洋画界を支え続けた生涯を終えました。
教育者としての藤島武二、荻須高徳との関係
藤島は1896(明治29)年に東京美術学校西洋画科へ着任して以来、多数の画学生を指導しました。
また、1912(明治45・大正元)年に岡田三郎助とともに開設した本郷洋画研究所(翌年より岡田が中心となって指導)や、
川端絵画研究所(川端画学校)などでも教えています。
荻須高徳は、上京した1921(大正10)年から約1年間、
藤島が指導していた川端画学校で東京美術学校の受験準備のため石膏デッサンを学び、翌年入学します。
当時の西洋画科では3年生から指導を受ける教室を選ぶことができました。
藤島、岡田、和田栄作による3教室の中でも藤島教室は人気があり、
荻須のほか同級生の猪熊弦一郎や小磯良平も選択しています。(藤島武二 スケッチ百花、Column欄)。
大川美術館コレクション
・・・藤島武二の作品において、大川美術館(群馬県桐生市)が所蔵するコレクションには、
西洋絵画の模写から雑誌「明星」等の挿し絵となった版画、
壮年期に留学したフランス・イタリアの風物女性像や風景画など、
青年期から晩年に至るまでの作品が含まれ、スケッチと言う言葉にとどまらぬ幅広いものです。(藤島武二 スケッチ百花より抜粋)。
模写
インク・墨・紙
版画
木版・紙
クレヨン
クレヨン・紙
水彩
水彩・紙
油彩
油彩・カンヴァス
荻須記念美術館と稲沢市
荻須高徳記念美術館
・・・稲沢市出身でパリを中心に活躍した、画家荻須高徳の功績を讃えるため、
また市民の芸術文化振興に寄与することを目的として、
1983年に緑豊かで閑静な稲沢公園に建設されました。
- 営業:9:30~17:00(入館16:30まで)。
- 休業:月、12月29日~1月3日、月曜日は祝日を除く祝日の翌日。
- TEL:0587-23-3300。
常設展示室
文化勲章を始め数々の賞を受賞された荻須高徳画伯から寄贈された数々の、
油彩・水彩・デッサン・リトグラフなどが展示され、
パリの詩情が漂う荻須芸術の全容が紹介されています。
パリで使用していたアトリエ施設
荻須がパリで使用していたアトリエの復元施設などを同美術館で鑑賞することが出来ます。
稲沢市
・・・稲沢と言えば、国府宮のはだか祭・銀杏・植木・苗木などを思い浮かべます。
歴史
平成17年4月1日に稲沢市、旧祖父江町、旧平和町が合併し、新しい稲沢市が誕生しました。
天下の奇祭として有名な「国府宮はだか祭」で知られる稲沢市は、濃尾平野のほぼ中央に位置し、
かっては尾張国の政治・文化の中心地として国府が置かれていたまちです。
江戸時代には東海道と中山道を結ぶ美濃路の宿場町としてにぎわいました。
そのため市内各地には、かっての稲沢の隆盛を今に伝える史跡や文化財が数多く残されています。
市域の西に接する木曽川によって堆積された肥沃な土壌と温和な気候を生かし、植木や苗木の産地として発展してきました。
現在は住宅地や工業団地の開発などを進め、
名古屋都心から交通至便な場所として注目を集めています。
主な観光
日本三大奇祭「はだか祭」
日本三大奇祭に数えられる「はだか祭」。その起源は奈良時代の神護景元年(767年)にさかのぼります。
「はだか祭」として知られるこの祭りは、正しくは「なおい神事」といい、
尾張国司が悪疫退散を祈願する厄払いを、尾張大国靈神社(国府宮神社)で行ったのが発祥の由来です。
旧正月13日、「はだか祭」が行われる国府宮神社一帯は祭の興奮に包まれます。
神社参道では神男(しんおとこ)に触れて厄を落とそうと数千人の男がもみ合います。
3年ぶり熱い渦、国府宮はだか祭
下帯姿の男たちが激しい籾井を繰り広げる天下の奇祭「国府宮のはだか祭」が三日、愛知県稲沢市の尾張大国霊神社(国府宮)で開かれた。
最高気温が8度と冷え込む中、三年ぶりに裸男がもみ合いの渦を作った。
裸男の数は1730人(神社発表)。八千~一万人だった新型コロナウィルス禍前より大幅に減り、過去最少だった。
午前中から裸男らが参道に集り、厄除けの願い事を書いた布を結びつける「なおい笹」を次々と奉納。
午後4時ごろ、祭りの主役・なおい人(神男)の矢沢健二さん(41)=同県あま市=が参道に現れると、体に触れて厄を託そうとする裸男たちが一斉に押し寄せた。
神男は集まった裸男をかきわけ、約二百メートル先のなおい殿を目指して前進。
記録が残る1988年以降で、二番目に早い21分で引き揚げられた。今年は新型コロナ対策で、
神社側が裸男の参加者を県内在住・在勤務に絞るなど、制限していた。
参加者数は六万五千人で前年より六割増えた。(2023/2/3日、中日新聞)。
植木・苗木
稲沢が誇る産業「植木」そのルーツは鎌倉時代。
矢合町国分寺の柏庵(はくあん)和尚が、中国で学んだかんきつ苗の接木の技術を持ち帰り、農家に伝授したのが始まりだといわれています。
苗の育成に適した気候と肥沃な土壌に恵まれていたことから、
ここ稲沢で植木産業が発達してきました。
現在は、埼玉県川口市、大阪府池田市、福岡県久留米市とともに我が国四大産地の一つとそて、
年間約1700万本を全国各地に出荷しています。
ぎんなん
日本一の生産を誇るぎんなん。古くは米の凶作時の備蓄食料にも使われたそうです。
その生産を目的とした栽培は祖父江町地区が最も古いとされていますが、
歴史は意外と新しく約100年と言われています。
ぎんなんのなるイチョウの木は厳しく吹きつける伊吹おろしを防ぐ防風林として、
祖父江町地区では古くから神社・仏閣・屋敷周りに植えられてきました。
藤島武二と大川美術館コレクションのまとめ
・・・冒頭で述べましたが、故郷鹿児島で隣町の生まれである藤島武二は、黒田清輝と東郷青児とともに認識していました。
しかし、地元では教科書に載るような有名な作品を観ることは出来ませんでした。
故郷を離れ、名古屋に住んでいるからこそ世界的な画家の作品にもたびたび触れることが出来るのだろうと思います。
思えば名古屋に住み始めて数年後、「ルノアール展」が県美術館で開催され、彼の絵を直に観ることが出来ました!。
「キャンバスに背を向けた裸婦」その豊かな色彩に驚き、3度観に行ったのを思い出しました。50年ほど前の事になります。
此度の展示会は、日本の西洋絵画の黎明期に立ち向かった画家たちの日本人の誇りとエネルギーを感じました。
名鉄国府宮駅から徒歩で荻須美術館へ向かうつもりが、3度目の今回は反対側の国府宮神社の方へ出てしまいました(失笑・涙)。
途中で気づき、畑で農作業中の方や買い物途中のおばさま方に道を聞きながら引き返しました(感謝)。
お陰様で、青空のもと銀杏並木を歩きながら、社寺仏閣などの「歴史・水・緑豊かな自然」の稲沢を感じました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。