・・・日中国交正常化50周年記念として、「兵馬俑と古代中国、秦・漢文明の遺産展」特別展が名古屋市博物で(2022/9/10~11/5)開催されています。
特別展は、「兵馬俑」など、秦や漢の時代の出土品約二百点を展示。
展示会のコーディネーターは、日中文化協会(名古屋市)の唐啓山専務理事。
中国史上唯一、等身大でリアルに作られた秦の始皇帝の兵馬俑の一大奇観は謎でした。
秦の始皇帝陵の”一大奇観の謎”を解明できるかもとの思いもあり、名古屋市博物館に出かけました。
冒頭にその謎を解くカギの記事を掲載します。この記事が、同じ疑問の解明の参考になれば幸いです。
秦の始皇帝兵馬俑、名古屋市博物館
兵馬俑とは
・・・人や動物をかたどった焼き物お人形を「俑」といい、お墓に眠る主の生活のために地下におさめられました。
秦の始皇帝陵の武装した兵士や馬は、戦乱の時代を物語ります。
始皇帝陵の兵馬俑
・・・始皇帝陵の兵馬俑は約8000体と予想され、一体一体等身大で顔が異なります。
死後の世界でも、生涯と同じように、軍事力と皇帝の地位を持ち、永遠に守られるために、秦始皇帝陵と兵馬俑の造営を命じました。
70万人以上の職人と労働者を動員し、約40年かかって完成しました。
武器を構える一般兵や戦車馬など、出陣する軍勢を忠実に再現しているようです。
なぜ等身大でリアルに作られたか
・・・展示会場出口付近の解説ボードにその謎が記されていましたので、以下を記事にしました。
~俑の大きさの変遷をめぐって~本展監修者・学習院大学名誉教授、鶴間和幸氏の解説を紹介します。
秦の始皇帝の兵馬俑の謎について、その謎を解くカギは、下記3つの要素があると解説しています。
その1.
<秦の西戎(せいじゅう)文化の賜>
馬を巧みに養い、鹿や虎の狩をした秦人である始皇帝は、本物の馬や鹿を丁寧に埋葬し、
そこに等身大より一回り小さいサイズの飼育人の役人の陶俑を作って添えました。
やがて本物の馬から、同じサイズの馬俑を埋めるようになり、それに合わせた等身大の人間の俑まで作られるようになりました。
馬の存在を尊び、そこに人を組み合わせる発想は、素朴な秦の文化の賜物と言えます。
その2.
<西方の文化の影響>
始皇帝の曽祖父・昭王の時代には、マケドニアのアレキサンダー大王が西北インドまで進軍し、
人間の姿を等身大でリアルに彫刻するギリシア文化も東方に伝えられました。
それが中国まで伝わったという史料はありませんが、戦国時代の秦の墓からギリシア神話の葡萄酒の神(ディオニソス)を描いた装飾版が、
また始皇帝陵の大型陪葬坑(ばいそうこう)からは金銀2体のラクダ俑が、近年に出土し、西方文化の影響が少しずつわかってきています。
将軍俑の姿からは、将軍から実質ローマの皇帝となったアウグストゥスの彫刻が想起されます。
その3.
<始皇帝自身の遺志>
始皇帝は、13歳で秦王に即位した翌年から自分の陵墓を作り始めたと「史記」は述べています。
しかしその記述に反し、秦王が29歳になって陵墓と陵邑(墓守の都市)を築き始めたという史料が出てきました。
成人秦王が戦乱のなか陵墓を造営し始め、39歳に皇帝となり、50歳で亡くなる晩年に、
人間をリアルに表現した兵馬俑を埋めることを強い意志で命じたと考えられます。(学習院大学名誉教授、鶴間和幸)。
<ご参考>
その1.始皇帝以前の時代の孔子の教え
講師は、殉葬を招くとして、人間をリアルに表現した俑を批判しました。
その2。秦と始皇帝の豆知識
秦は、周代・春秋時代・戦国時代にわたって存在した王朝。221年初めて中国を統一、前206に滅亡。
始皇帝は、前259に生まれ、名はエイ政。父の死により13歳で即位(前246)、前210まで生存在位。
紀元前230年~221年にかけて韓・趙・魏・楚・燕・斉の順に6か国を征服し、はじめて中国を統一しました。
中央官制の整備、群県制の実施、度量衡、文字の統一、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)による思想統一など行いました。
一方、匈奴を攻撃して万里の長城を築き、南方に領土を拡大しました。
阿房宮(始皇帝の大宮殿)、始皇帝陵など国民に大きな負担を与えました。
兵馬俑一大奇観、秦から漢へのまとめ
・・・しかし、①秦人の文化という内的要因と、②西方の文化という外的要因に、③始皇帝と言う絶大な権力者の強い意志が加わることによって、孔子の教えにも背く、この一大奇観が生まれたのではないでしょうか。
漢の時代には小さな木の俑に戻る
・・・その後の時代、漢王朝を樹立した劉邦は楚の地方の出身で、楚の文化を愛好していました。
そして楚では、小さな木の俑に絹の服を着せて墓の中に収める習慣があったために、
漢の時代では小さなサイズの兵馬俑が作られたと考えられます。
劉邦は皇帝に即位した後、秦の都”咸陽”(かんよう・シエンヤン)の廃墟の上に長安城を築き、
秦から受け継いだ法律で統治しましたが、文化の面では秦を受け継がなかったのです。
古代中国、秦文明の遺産
統一前、戦国時代の七大勢図
秦の都”咸陽”(かんよう・シエンヤン)
始皇帝陵と兵馬俑坑
始皇帝陵
西安郊外・リ山のふもとに存在し、高さは76mで、
現代でいえば25階建てマンションに相当します。始皇帝は地下10階ほどに眠ります。
兵馬俑坑
兵馬俑坑は、始皇帝陵の東方1.5kmに位置し、1号抗~3号・4号抗(空洞)が存在します。
鎧甲武士俑
かたどられた兵士は皆、同じ方向を向き忠誠を誓っているといいますが、本音はどうだったのでしょう。
戦いに奮い立って愛るものだけではないはずです。そんな一人一人の気持ちを、
同じ顔は二つとないといわれる兵士たちの表情から読み取って自分勝手に想像するのも新たな楽しみです。
また、兵馬俑の土を運んだ人、バラバラのパーツを組み合わせる時の恐らく落として割ってしまった人、
皇帝の下で繰り広げたであろう記録に残らない無数の人間ドラマこそ歴史の源。
間近にいけば、ため息や出来上がりの歓声が聞こえてくるかもしれません。(あばれる君・世界遺産検定1級、2022/10/4,中日新聞)。
き射武士俑
・・・中国の地下から現れて、世界中の人々を驚かせたのが兵馬俑でしょう。
私も多いに驚かされた一人です。奇跡的と言ってよいその造形美は、ギリシャ彫刻に比肩できます。
もともと秦の始皇帝は賢い人で、細かな最低も下の者に任せず、自ら行ったので、
自身の死後の世界も現世を正確無比に写させたのでしょうか。
ただし始皇帝は、天下統一後に神仙に憧れて方土に仙人を探させ、不老不死を得ようとしました。
死にたくない始皇帝が、死後の世界を整備するところに矛盾があります。
また兵馬俑を造った集団は、秦の滅亡とともに消えたとも思われます。
それはそれとして、き射武士俑は、弩という弓をもって片膝をついた武人の形ですが、
その表情にある凛とした誇りは至上です。(宮城谷昌光・作家、2022/10/6、中日新聞)。
戦服将軍俑
・・・高校二年の春、祖父のお供で上海、北京を巡る機会に恵まれました。
最終目的は西安です。バスで広大な砂地を真っすぐに進みました。
雲のない透明な青空、その中に現れた兵馬俑の発掘地に圧倒されました。
緻密な俑(よう、人形)は数え切れません。命じた皇帝、作った巧(たくみ)、
生き写しの兵たちに思いを馳せ、規模の大きさと「歴史に遺る」という意味に興奮しました。
土産屋で祖父にねだり、掌(てのひら)サイズの精悍な兵馬俑を一人連れ帰り、今も大事に書斎に飾っています。
自分も何か遺るものを作りたい、規模の大きな、しかし普遍的なものを生み出したい。
私が中国の小説を書くきっかけに、間違いなくなっている原体験です。(小島環・作家、2022/10/8、中日新聞)。
キ座俑
銅馬車(複製品)
始皇帝陵西側から2輌の銅馬車が発掘された。1号銅馬車は立ち姿の御者が操縦する立車、
2号銅馬車は御者が正座して操縦した安車、箱型で乗車した皇帝の姿は外には隠される。
夏涼しく冬温かく乗車できるように、窓の開閉で換気を良くした。
実物の2分の1のサイズで精巧な部品を組み合わせており、古代中国の青銅の技術の最高峰である。
4頭馬の中央の二頭の首に逆Vの字形の軛(くびき)が覆い被さり、衡(こう・横木)で連結され、
車体の中央から伸びた轅(ながえ)が十文字に結ばれ、車体を牽引する。
左右の添え馬も牽引用の綱が首に回されて車体につながり、補助的に牽引する。
御者が手綱の6本を左右の手でさばいて、馬を制御した。(展示会場キャプション)。
*参考:軛(くびき)
車の轅(ながえ)の端につけて、牛馬の跡頸にかける横木。
*参考:轅(ながえ)
牛車・馬車などの前に長く平行に出した2本の棒。その前端に軛(くびき)を渡し、牛馬に引かせる。
古代中国の武器
・・・古代中国では県や弓矢、矛をはじめ、戈(か)や戟(げき)、弩(ど)という日本ではあまりなじみのない武器も使われました。
ほこ(矛・戈・鉾・槍・戟)
諸刃(もろは)の剣に長い柄(つか)を取り付けた武器。枝のあるものもある。
敵を突き刺すのに用いる。日本でも鎌倉前期まで用いられ、薙刀はその変形。
刀身に柄を受ける穴のあるものを袋穂(ふくろぼ)といい刀身を柄の中へ入れる茎造(なかごづくり)のものもあります。
中国を統一した弩機(どき)
秦が初めて中国を統一できたのは”弩”を装備する歩兵軍団のお陰である。
弩の特徴
弩は弓と違ってそれほど訓練しなくとも命中率が高い。
要は弩にはめ込む弩機は極めて精巧で、しかも大量生産されたらしい。
秦の始皇帝は軍団を養成し、隣国を次々と滅ぼしていった。
青銅弩機には始皇帝の壮大な思いが詰まっている。(東大寺長老・森本公誠、2022/10/5中日新聞)。
青銅弩機の生産
展示されている弩の部分はボウガンの引き金部分です。
複数のパーツを組み合わせて本体に取り付けるため、正確な大きさで作る必要がありました。
統一後の秦では官営工場で武器を作っていました。(展示会場キャプション)
青銅器
・・・秦は周の儀礼を重視する青銅器の文化も受け継ぎつつ、鏡や貨幣、香炉、帯留など様々な性格の青銅器を作りました。
始皇帝のやった歴史的出来事
- 中国を統一。
- 貨幣・度量衡・文字を統一。
- 焚書・坑儒による言論統制。
<ご参考>
前213年、秦の始皇帝が民間に蔵する医薬・ボクセイ(占い)・農業などの実用書以外の書をすべて集めて焼き捨てた。
数百人の儒者を捕らえて、翌年咸陽で抗に埋めて殺したこと。
古代中国、漢文明の遺産
・・・秦の滅亡後、劉邦は、高祖を名乗り、皇帝に即位します。
中国を再統一した漢王朝は、秦の国家制度を引き継ぎ、やがて黄金時代を迎えます。
一級文物の数々
一級文物
一級文物とは、最高級の貴重品を指す中国独自の区分です。前述記載した始皇帝の兵馬俑をはじめ、
美しく輝く金制品、細かな装飾や文字を刻む青銅器など計23点を展示します。
鎏金青銅馬(りゅうきんせいどうば)
本品は農民が偶然発見し、後に同じ場所から2000件もの青銅器も発掘されたため、
武帝の姉、陽信長公主(ようしんちょうこうしゅ)の陪葬坑があると分かった。
武帝は西域の大宛(だいえん)への使者に金馬を持たせた。武帝が憧れた大宛の汗血馬を想い作ったのかもしれない。
筋肉質で頑強な骨格の造形だが、尻尾の位置が高い。また、耳の間に三角形の角のようなものも見え、
天を駆け血の汗を流す大宛の馬には両耳の間に肉角がある、との伝説を表現した。(展示会場キャプション)。
漢王朝の繁栄(前漢202~08年)
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・・・高祖劉邦の子の文帝、孫の景帝は、東方に分かれ出た劉氏一族ら諸侯王との対立を制しながら、中央の皇帝権力を強化した。
漢代の皇帝陵は一代ごとに渭水(いすい)北岸の咸陽丘陵に造成し、陵邑(りょうゆう)の都市には東方からの移民者で満たしていった。
第7代皇帝武帝
前141年に即位した第7代皇帝武帝は、一見百年前の始皇帝と行動がよく似ていた。
泰山(たいざん)の封禅(ほうぜん)の礼(=天帝に地上の統治の正当を報告する祭祀)を始皇帝以来はじめて行い、
不老長寿の神仙世界を追い求め、北方の匈奴と南方の南越との対外戦争を進め、長城も築いた。
その一方で武帝は始皇帝以来の政治制度からの脱皮をはかろうとした。
秦の制度を踏襲していた前漢前期の政治を大きく改めた。さらに西域への道を開いた。
<武帝と汗血馬>
また、中央アジアの大地に生息する汗血馬(天を駆け血の汗を流すという意味)の情報は武帝を虜にした。
後に武帝は、念願のその天馬を手に入れる。(展示会場キャプション)
前漢の歴史的な出来事まとめ
- シルクロードの発展。
- 推薦による官史登用。
- 儒教の国教化。
- 「史記」の編纂。
漢王朝の繁栄(後漢25~220年)
彩色陶洋尊
・・・羊型の手記は殷代の青銅器に見られ、漢代ではめずらしい。
殷代の双羊の青銅尊(そん)は2つの羊の中央に注入口があり、本品も似ている。
「漢書」によれば、前78年の正月に全国に羊と酒を賜うという詔が下されている。
羊は酒とともに食するものであった。
穀物倉庫の副葬品
・・・穀物倉庫の副葬品で、鉛の釉薬で発色した緑夕釉がかかる。
瓦葺の屋根に中央に穴があるが、本来は蓋が付き通気口としちぇ開閉した。
獣形の足で高床にしている。穀物を墓室に埋葬する容器である。
横穴式墓室
・・・密封した竪穴式墓室から横穴式墓室に変わると、墓門が貴重な意味をもちます、
陜西省の北部は漢代の画像石の一大センターでした。
墓室の入り口に門扉があり、上部に鳳凰、中間に鋪首(=ドアノブ)。
下部には左に龍右に虎が対面して表現されています。
左右には柱、上に梁が渡された。梁には右に太陽、左に月の天井世界、柱には門衛と神仙の世界が描かれた。
秦の始皇帝兵馬俑と古代中国、秦・漢文明の遺産のまとめ
・・・何か遺るものを作りたい、できれば規模の大きな、普遍的なものを生み出し後世に名を残したい。
これは人間の本能のひとつですが、秦の始皇帝はまさにその願いを成し遂げた人であったと思います。
しかし誰しも歴史に遺るような大規模の遺産を後世に残せるわけではありません。
後継者あるいは自分の知らない何者かにすべてのものを消し去られるかもしれません。
一方、誰しも何か遺るものを作りたい本能があると思われます。これは規模の大小ではなく、
社寺仏閣など建造物に限らず、絵画・音楽・料理・舞踊など文化的なものも遺したい物の一つです。
例えば、各地方・地域に伝わる芸能・各家々で守られたしきたりなど、様々な範囲に及ぶと思います。
今回、中国の兵馬俑の展示を観賞し改めて思う事ですが、世界的な観点からみて我々の日本はどうでしょうか。
日本人は、自然と人々の”遺したい思い”を大切にする文化を持った、世界的にも稀有な国民であると感じました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
番外編:兵馬俑豆知識
・・・兵馬俑に関し、さらにググってみました。ご覧いただき参考になればれ幸いです。
1.20世紀最高の考古学発見
兵馬俑は、世界最大の古代の皇帝の墓地である秦の始皇帝の陵墓の一部です。
像一体の高さは175㎝~190㎝です。姿勢・表情は一人一人異なり、一部は彩色されています。
秦の技術、軍事、芸術、文化の高さを明らかにしました。
2.世界の8番目の不思議
1987年9月、兵馬俑は元フランス、シラク大統領に「世界8番目の不思議」にあたる。
ピラミッドを見ずしてエジプトに行ったと言えないように、兵馬俑を見ずして中国に行ったと言えまい」とのことでした。
3.2200年以上前の建設
秦の始皇帝は紀元前246年(13歳の時)軍隊を組織し、王座に上がりました。
兵馬俑は、皇帝の死後の軍隊です。
死後の世界では、彫刻のような物体でもうごくことが出来ると信じられていました。
2200年後の今でも、兵士たちはそびえたち、国宝レベルの職人技と芸術性を披露しています。
4.兵馬俑博物館は3つの俑抗からなる
- 1号俑抗:飛行機の格納庫規模の大きさ(230m×60m)です。兵馬俑は6000体以上ありますが、2000体未満が展示されています。
- 2号俑抗:俑抗(96m×84m)のハイライトであり、古代軍隊の謎を明らかにしています。それは、弓矢、戦車、混成部隊、騎兵を持つ部隊を持っています。
- 3号俑抗:最小(21m×17m)ですが、非常に重要です。わずか68体の兵馬俑があり、それらのすべては将校で司令部を表しています。
- 銅車馬のホール:世界最大で最も複雑な古代の銅の遺物が展示されています。各馬車は3400の部品からなり1234Kgあります。金と銀の装飾品が1720あり、重量は7㎏です。
以上、番外編までよんでいただき、有り難うございました。