アート

横山美術館の企画展、東京・横浜焼。明治~大正の主要窯場。

 

・・・この度、横山美術館にて企画展、東京・横浜焼が開催されました。日本に新しい変化をもたらした明治維新。

世界各地に輸出された陶磁器も例外ではなく、その変化の歴史的背景を鑑賞しました。

一方、世界を魅了した東京・横浜焼は、震災と戦災により幻のようにその姿を消しました。

以上の状況を展示作品とともに、この記事で紹介できれば幸いです。

横山美術館の企画展、東京・横浜焼

  • 開催時期:2022/11/18~2023/2/12。
  • 開館時間:AM10:00~PM5:00(入館はPM4:30まで)。
  • 休館日:毎週月曜日(祝・休日の場合開館、翌平日休館)。

 

東京・横浜焼、概要

歴史的背景

横浜港開港

横浜港開港後、東京や横浜に新興の窯業産地が誕生します。

写真:(上)提督ペリー、(下)玉鳴館1898年。

 

嘉永6年(1853)アメリカのペリー提督が浦賀はやって来て、鎖国を解き港を開くよう要求した(黒船来航)。

安政5年(1858)には日米修好通商条約・安政五か国条約が締結され、

外国との自由貿易が始まることになった。翌年には横浜港が開港し、江戸(東京)に最も近い貿易港として発展します。

 

輸出向けに生産

東京や横浜へ土を運び、輸出向けに生産する者も現れました。

明治政府は欧米列強に対抗できる国家を築くため近代化を推し進める。

鉄道開業

写真:立斎広重1873「東京汐留鉄道館汽車待合の図」

 

その一つが鉄道建設による輸送力の増強で、新時代の到来を国民にアピールする目的もあった。

最初に開通したのが新橋-横浜駅で、イギリスの技術と車両を導入し、約30kmの3分の1は堤を築いた海上路線とした。

鉄道は新たな首都となった東京と貿易港の横浜を結び明治5年(1872)に開業、2022年は150周年である。

政府の動き

政府は、明治5年(1872)、東京に博覧会事務局附属磁器製造所を設立し、

他産地から素地を取り寄せて上絵付を行いました。これが東京錦窯です。

上絵付業の発展

この東京錦窯を、阿原徳立が引き継ぎ瓢池園を設立、東京絵付の中心となります。

主な陶磁器の変化

高浮彫

明治3年(1870)、高浮彫で知られる宮川香山がっ京都から横浜へ移り、翌年に開窯します。

隅田焼

瀬戸の井上良齊も同8年(1875)、隅田川沿いに築窯してユニークな隅田焼をつくりました。

薩摩焼と成瀬誠志

成瀬誠志(なるせせいし)

茄子川(元・岐阜県中津川市)の成瀬誠志は東京へ移り、

明治5年(1872)には芝増上寺に窯を築いて、煌びやかで精密な絵付けの薩摩焼(東京薩摩)をつくりました。

日本にダーウィンの進化論を紹介した動物学者のモースが、彼を薩摩焼細密画の元祖と位置づけ、

誠志も外国人に説明を求められると、黙って虫眼鏡を渡したといわれています。

明治19年(1886)には静かな環境を求めて帰郷しました。

7年後の万国博覧会出品作が、輸送中に大破しながらも受賞したという逸話もある。

また、東京の成瀬誠治や三彌舎、横浜の保土田商店や服部などが薩摩焼をつくり、活躍します。

東京絵付け、作品紹介

写真・瑠璃地金彩老松図花瓶:清川惣助画、明治時代。

 

 

写真・上絵金彩花鳥図花瓶:東京錦窯画、明治5~6年。

 

 

写真・染付上絵金彩浦島太郎図花瓶:瓢池園画、明治10年。

 

 

写真・上絵金彩貴人花見図花瓶:東京錦窯小林南圃

 

横浜絵付け、作品紹介

写真・上絵金彩鍾馗図花瓶:川本桝吉・井村彦次郎商店画、明治時代中期から後期。

 

 

写真・上絵金彩扇面山散図花瓶:井村彦次郎商店画、明治時代。

 

 

写真・浮彫上絵金彩漁獲図花瓶:開洋社、雅友画 明治時代。

 

 

写真・上絵金彩菖蒲図花瓶:ヴァンタイン商会画、 明治時代前期~中期。

 

企画展、展示紹介

写真:横山美術館4F企画展、エントランス。

 

企画展概要

歴史的背景

・・・安政6年(1859)に横浜が開港した以降、東京や横浜にも新興の窯業産地が誕生しました。

陶磁器に適する土が産出しない東京や横浜へ、生産と~土を運び、生産を始める者も現れます。

明治3年(1870)、宮川香山は輸出用陶磁器を制作するため京都から横浜へ移り、翌年に西太田で開様窯しました。

細密な文様と金彩を施した豪華な京薩摩をベースとし、

器面に造形物を貼り付ける高浮彫を大成させ、欧米で人気を博します。

隅田焼の背景

隅田焼は、瀬戸の川本治兵衛の親戚にあたる井上良齊が隅田川に近い浅草橋場町で始めた陶磁器である。

治兵衛の子が二代良齊として登り窯を築き、輸出陶磁器を生産した。

中国風または江戸情緒を感じさせる高浮彫をつくり、良齊焼あるいは「浅草萬古」とも呼ばれた。

同様の作風で制作した複数の陶工が、確認できる。

二代良齊は、加工の腕はもちろん、釉薬の扱いに長けていた。

明治11年(1900)には渡仏、パリ万国博覧会で受賞する。

三代良齊は大正3年(1914)に横浜へ窯を移して神奈川焼と改称、重誠として活躍した。

 

前述の瀬戸の井上良齊は、同8年(1875)、隅田川沿いの浅草橋場の登り窯を築きました。

同様に高浮彫の技法を用いてユニークな作風の隅田焼をつくり、

製品は専ら輸出向けとして横浜港から海を渡っていきます。

また、海外でいち早く人気を得ていた薩摩焼の様式で「東京薩摩」「横浜薩摩」と称される陶器が作られました。

東京では成瀬誠志や三彌舎など、横浜では保土田商店や服部などが活躍した記録が残っています。

芝の増上寺に窯を窯を築いた成瀬誠志は薩摩焼細密画の元祖とも呼ばれ、

保土田商店は鹿児島などから素地を横浜へ運んで上絵付けしました。

写真:保土田太吉、横浜市中央図書館蔵。

 

保土田商店と横浜薩摩

保土田太吉は明治26年(1893)、横浜に保土田商店を開いた貿易商である。

主に鹿児島などから素地を取り寄せ、薩摩焼風の絵付けを施して販売した。

保土田商店の薩摩焼は評価が高く、同種の業者のうちでも最も名前が知られていた老舗だという。

また、注文があると食料品や絹製品、美術工芸品などさまざまな商品を扱い、

その売上高はトップクラスだったとされる。

太吉は常に労を惜しまず、人の意見や忠告を寛容に受け入れる度量の持ち主で、

質素を第一としていた。

横浜では、他にも服部や中島などの陶器商や陶器工が、

横浜で絵付けする「横浜薩摩」を作っていた。

 

明治政府の動き

ウィーン万国博覧会のため、明治元年(1868)ドイツ人科学者ゴットフリート・ワグネルを長崎に招いた。

ワグネルと加藤友太郎

その後は「お雇い外国人」としてウィーン万国博覧会の御用掛を務め、

各学校で陶磁器などの製造を指導する。

自身も同17年(1884)に吾妻焼(後の旭焼)を造り始め、釉下彩を研究した。

瀬戸出身の加藤友太郎は、同郷の二代井上良齊を頼って上京、

明治15年(1882)にワグネル考案の釜を譲り受けて「友玉園」を設立した。

彼の開発した朱色顔料を用いた釉下彩は、高く評価された。

万国博覧会での受賞も、数多い。

・・・政府は明治5年(1872)、翌年にオーストリアで開催されるウィーン万国博覧会への出品物を制作するため、

東京の浅草芝崎町に博覧会事務局附属磁器製造所を設立します。

瀬戸や有田、京都などから素地を取り寄せて専門的に上絵付を行い、洋絵具も導入して服部杏圃などが指導しました。

東京絵付け

・・・これが東京錦窯で、翌年に閉鎖されると河原徳立が陶画工を連れて引き継ぎ、

深川に瓢池園を設立して東京絵付の中心となります。

東京錦窯と瓢池園

明治6年(1871)に開催されるウィーン万国博覧会に出品する作品を制作するため、

政府は東京の浅草に博覧会事務局附属磁器製作所を設立しました。

上絵付指導の中心的存在だった服部杏圃が「東京錦窯」と命名し、松本芳延らも指導を置かなっています。

瀬戸や有田、京都などから素地を取り寄せて専門的に絵付し、

人物や花鳥などを描いて図柄は絵画的でありました。

翌年に東京錦窯が閉鎖されると、事務官の河原徳立は、

その陶画工をつれて瓢池園を設立、東京絵付けの中心となります。

明治42年(1909)、日本陶器(現・ノリタケ)に統合されました。

東京錦窯→瓢池園(河原徳立)

横浜絵付け

・・・東京で盛んとなった絵付業に着目した井村彦次郎は、同8年(1876)頃、

専属の上絵付工場を有する陶磁器販売店を横浜の本町通に設立し、横浜港からの輸出を行いました。

これが先駆けとなり、貿易港の利点を活かして田代商店など多くの業者が参入、横浜でも上絵付業が発展します。

名古屋絵付け

・・・しかしその一方で、瀬戸や美濃といった産地に近い名古屋でも上絵付業が盛んになってきました。

瓢池園や田代商店などが本拠地を名古屋へ移し、成瀬誠志も生産コストの高い都会から、

故郷の茄子川(元・岐阜県中津川市)に戻って行きました。

東京・横浜焼の消滅

加えて、関東大震災と戦災の打撃が重なって、東京・横浜焼は幻のようにその姿を消してしまったのです(引用:案内ボード)。

服部杏圃(はっとりきょうほ)

服部杏圃(生没年不詳)は、明治2年(1869)に西洋の顔料による陶磁器の絵付けに成功し、

ウィーン万国博覧会に向けて東京浅草に設立された博覧会事務局附属の磁器製造所の所長を務めました。

日本の伝統とはまったく異なる西洋静物画風の上絵付けに成功しています。(ネット引用)。

明治~大正時代の主要窯場

・・・明治から大正時代にかけ、世界に名を馳せた日本陶磁器の窯場(①~⑱)とその特徴などをご覧ください。

①東京

明治政府が明治6(1873)年のウィーンバンコク万国博覧会出品制作のために特設した「東京錦窯」が先駆けとなり、

東京絵付けと言われる上絵付業が成立しました。

②横浜

安政6(1859)年に開港、日本橋最大の貿易港となる。陶磁器が海外での需要が高まったことを受け、

上絵付を行う工場が多く設立。横浜絵付けが確立されました。

③美濃

江戸時代は瀬戸焼と一括され、尾張藩を通じた生産と販売が行われました。

明治時代に加藤五輔や西浦圓治らが美術品にまで質を高めることに尽力し、万国博覧会などで数々の受賞を果たしました。

④瀬戸

六古窯の一つ。明治時代には、万国博覧会への出品を機に輸出用の磁器生産が活発となりました。

東京や横浜、名古屋などで上絵付される素地の提供も行いました。

⑤名古屋

明治時代以降、瀬戸や美濃で焼かれた白素地に名古屋で上絵付を施し、輸出する仕組みが採られました。

全国から優秀な絵付け職人が集まり、名古屋絵付けが発展しました。

⑥常滑

六古窯の一つ。明治16(1883)年、明治政府は常滑役を輸出産業としての育成のため、美術研究所の設立などを進めました。

明治20年頃に輸出のための生産が盛んとなりました。

常滑焼の最大の特徴

原料となる陶土に鉄分が多く含まれていること

急須の鉄分とお茶に含まれるタンニンが反応することで、

渋味がほどよく取れてマイルドな味わいにしてくれる効果があるのです。(引用:ライフデザイン)。

⑦萬古

江戸中期、桑名の豪商沼波弄山(ろうざん=五左衛門重長)が三重県朝日町小向に開窯。

四日市萬古を扱う陶器問屋の河村又助が明治18(1885)年、萬古陶器商工組合を組織し、販路を海外にまで拡張しました。

四日市萬古焼(よっかいちばんこやき)

三重県四日市市で作られている陶磁器です。

古くより、茶碗や皿などの日用品、壺などの芸術品が作られてきました。

現在では、紫泥(しでい)急須や土鍋が代表的な生産物となっており、

特に土鍋においては国内生産の土鍋の8割から9割が萬古焼と言っても過言ではありません。

四日市萬古焼の特徴

使用される陶土から生まれる優れた耐熱性です。

土鍋の陶土には、葉長石(ようちょうせき、別名ペタライト)と呼ばれる熱に強いリチウム鉱石を40%ほど混ぜています。

それにより強度が増し、直火や空焚きにも耐える耐熱性が生まれます。

この技法は、四日市萬古焼の特許となっており、他では見ることができません。

急須

鉄分を多く含む土「紫泥」を用いて焼き上げます。

含まれる鉄分が炎によって独特の色合いを生み出し、また使うほどに味わいのある光沢が増していくのが魅力です。

毎年5月中旬には、四日市市の萬古神社周辺において「萬古まつり」が開催されます。

地元の窯元から出展される陶芸家の作品の数々と触れ合えるほか、

手頃な価格で販売されることもあり、全国から多くの人が訪れます。(引用:工芸ジャパン)。

⑧九谷

大聖寺初代藩主・前田利治のもと、明暦元(1655)年頃より磁器生産が行われました。

明治以降、政府の輸出振興政策のもと、輸出産業が盛んになりました。

九谷焼の特徴

「呉須(ごす)」と呼ばれる藍青色で線描きし、「五彩」と呼ばれる赤、黄、緑、紫、紺青の五色の絵の具を厚く盛り上げて塗る彩法

絵柄は、山水、花鳥など絵画的で力強い印象を与え、

吉田屋窯、宮本屋窯、小野窯などがそれぞれの窯の特徴を活かした作品を生み出してきました。(引用:ジャパニーズクラフツ)。

⑨信楽

六古窯の一つ。茶陶や日用品など、多種多様な大量注文に対応できる大窯業地として確固たる地位を築きました。

信楽の特徴:耐火性と粗い土質

陶器に灰がふりかかってできる自然降灰釉(ビードロ釉という)と、

土中の鉄分が焼成することによって表面にほのかに赤く、あるいは薄いかき色のような火色、

それと薪の灰に埋まる部分が黒褐色になる「焦げ」の現象が、

独特あじわいを醸し出すのが特徴だといわれています。(引用:信楽焼総合卸/金馬)。

信楽を代表する狸の置物は、明治期に考案されました。

⑩京都

明治維新によって東京へ遷都されたことにより、天皇家や公家など従来の購買層を失いました。

粟田口窯の六代錦光山宗兵衛らは海外市場に目を向け、輸出に活路を見出しました。

⑪出石(いずし)

寛政年間(1789~1801)、有田の職人の指導を受け、磁器生産を開始。

幕末に一度衰退するが、明治時代以降、品種改良に成功し、純白の磁器が焼かれるようになりました。

出石焼最大の特徴

冷たさが感じられるような透き通った独特の白さを持っています

出石焼の原料には「柿谷陶石」と呼ばれる良質な陶石が使われますが、この純白の柿谷陶石が、

出石焼の神秘的な白さを生み出すと言われています。(引用:プレミアムアウトレット)。

⑫神戸

横浜に約10年遅れ、慶應4(1868)に開港、神戸港や外国商館が位置することを活かし、

京焼や九谷焼の輸出や外国への売り込みが行われていました。

⑬淡路

賀集珉平(かしゅうみんぺい)が文政年間(1818~30)年に開窯。珉平焼とも。

京焼の写しを始め、中国や朝鮮の陶磁器も再現しました。

明治期には淡陶社などが伝承を引き継ぎ、海外への輸出を増加させました。

 

⑭布志名(ふじな)

舩木与次兵衛村政が明和年間(1764~72)までに開窯したとされる。

明治末から大正にかけて隆盛を極め、黄釉を使った器を多く生産、海外へ向けても輸出された。

写真:布志名焼、観光島根。

 

布志名焼の特徴

黄釉の器胎に全面に わたって鮮やかな花唐草の文様を絵付けする

昭和に入ってからは柳宗悦や河井寛次郎、浜田庄司、バーナード・リーチらの民芸運動にいちはやく共鳴。

そこでもたらされた技術をとりいれながらの作陶が、県下の陶芸界にも大きな影響を与えた。

化粧泥で模様を施したスリップウエアと呼ばれる技法もそのひとつである。

現在それぞれの窯元とも、布志名焼本来の流れをくみながら、独自の風情を醸し出した作品を作り上げている。(引用:観光島根他)。

 

⑮萩

桃山時代に創始され、一部長門市・山口市にも窯元がある。

明治期には御用窯が廃止されたが、江戸後期の作風を継承し、茶人好みの器を制作していた。

萩焼の特徴

ざっくりとした焼き締まりの少ない陶土を用いた、独特の柔らかな風合いが特徴です。

土が粗いため浸透性・保水性・保温性が高く、

土と釉薬(うわぐすり)の収縮率の違いによりできる表面の細かなヒビ(=貫入)

から水分が浸透し、器の中から表面にまで至ります。(引用:萩焼会館)。

⑯碇部(とべ)

元文年間(1736~41)には陶器が作られ、その後、磁器生産が開始。

明治期には瀬戸や京都などから技術がもたらされ、量産が可能となる。

明治以後は、東南アジア向けの食器の産地として生産を伸ばしました。

戦後は民芸運動を推進する柳宗悦、バーナード・リーチ、濱田庄司らから手仕事の技術が高く評価されました。

その後、近代デザインなどの陶芸指導により大量生産を行う産地から、

手作り、手描きを重視した伝統的工芸品の磁器の産地へと転換しました。

今や全国的な人気を誇っています。(引用:中川正七商店の読みもの)。

『砥部焼(とべやき)』

愛媛県伊予郡砥部町を中心に作られている磁器です。

白磁、染付、青磁、天目 (鉄釉) の4種類が国の伝統工芸品に指定されている一方で、

実用性とデザイン性も高く、日々の暮らしにぴったりの器が多いところも魅力のひとつです。

 

⑰有田

17世紀初頭、日本で初めて磁器生産を開始。明治期には、西洋の技術を取り入れ発展を遂げました。

万国博覧会への出品を機に、海外向けの磁器生産が盛んになりました。

⑱薩摩

約400年前、朝鮮出兵した島津義弘が陶工を薩摩に連れ帰ったことに始まります(後述、薩摩焼の歴史)。

薩薩摩焼(さつまやき)

鹿児島県で生産される陶磁器です。白薩摩、黒薩摩、磁器の3種類から形成されます。

薩摩焼の特徴種類が多く、竪野系、龍門司系、苗代川系、西餅田系、平佐系、種子島系と呼ばれる6種類もの種類があることです。

白薩摩は白もんと呼ばれ、淡い黄色い焼き物に透明の釉薬(ゆうやく)を使い、

表面にひびをあしらい、その上から装飾したもので、主に装飾品や置物等です。

黒薩摩は黒もんと呼ばれ鉄分の多い陶土を利用しており、釉薬も色味のついたものを利用しています。

黒もんは主に焼酎を飲むときに使われる器等です。

薩摩焼には主原料を陶石とする磁器も存在しますが、現在は流派が途絶え作られてはいません。

薩摩焼の産地は主に鹿児島県鹿児島市、指宿市、日置市等になり、

現在残っている窯場は、苗代川系、龍門司系、竪野系の3つの窯場です。

苗代川系は当初は黒もんを中心に作成していましたが、現在では白もんを中心に制作している窯場となります。

龍門司系は黒もん中心で酒器を作成している窯場で、

竪野系は白もん中心で主に贈答用の茶器等を制作しています。

薩摩焼きの歴史

薩摩焼きの歴史は戦国時代の文禄1(1529)年と慶長2(1597)年に行われた文禄・慶長の役から始まります。

これは日本が朝鮮出兵をした戦争ですが、別目「焼き物戦争」と呼ばれ、

薩摩藩藩主の島津義弘が朝鮮人の陶工師を80人連れ帰ったことで薩摩焼が誕生しました。

朝鮮人陶工師の朴平意(ぼくへいい)や金海(きんかい)らは、

薩摩藩内に窯場を開きそれぞれの陶工のスタイルで、様々なスタイルの陶磁器の制作を行いました。

これが流派や特徴に分かれ、現在の形に昇華した薩摩焼となります。

現在の薩摩焼は伝統を受け継ぎ、未だに朝鮮の風俗を受け継いでいます。

沈壽官(ちんじゅかん)の窯は美山にある窯場で朝鮮の独特の風俗を受け継いだ色絵薩摩の里です。

また、朴平意の末裔が引き継ぐ荒木陶窯は朝鮮ならではの左回しのろくろに拘り、

独自の天然釉薬を利用し、祖先から引き継いだ伝統を守っています。

1867年(慶応3年)の江戸時代から明治時代への変遷期には薩摩藩がパリ万博へ薩摩焼を出品し、

ヨーロッパの人々に感銘を与えて「SATSUMA」と呼ばれて親しまれました。

2007年(平成19年)の平成時代にもフランス国立陶磁器美術館に於いて、

薩摩焼パリ伝統美展が開催されその名を馳せました。(引用:工芸ジャパン)。

 

横山美術館の企画展、東京・横浜焼のまとめ

・・・世界を魅了した東京・横浜焼は、幻のようにその姿を消しました。

その経緯と歴史的背景、それに陶磁器を取り巻く環境の変化が時系列に理解できました。

東京・横浜焼が、幻のように消え、名古屋絵付けが残った原因、

それは人的移動・震災と戦災が背景にあったことは特に興味深い出来事でした。

以上、企画展東京・横浜焼の記事を紹介しました。

また、明治~大正時代の主要窯場を記載しました。参考になることがございましたら幸いです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。