社会

朝鮮半島からの逃避行・中国残留孤児の孤老・残留婦人のなぜ。中国帰国者公墓。

 

・・・過日、終戦直前・直後に日本人が、旧満州から地獄の逃避行を経験した記事を2件投稿しました。

そして、その時期は旧満州だけでなく朝鮮半島のシベリア近くまで日本人が在留していました。

その傷跡は今も続いています。平和を享受している我々は、この事実をシェアしたいとの思いで記事にしました。

関係者の記憶などを基にした記事なので写真などありませんが、参考になれば幸いです。

朝鮮半島からの逃避行(その1)

朝鮮半島にも終戦時70万人

・・・終戦時、旧満州からの引揚者の他に朝鮮半島からの引揚者も存在していました。

旧満州と同様に朝鮮半島の日本人も、地獄のような逃避行を経験しました。

北朝鮮からの引揚

・・・終戦時の朝鮮半島には一般人約70万人が在留北朝鮮には27万~28万人がいたとされます。

ソ連軍の侵攻や、抑圧されていた地元民の報復などを恐れ、

多くの邦人が日本を目指して自力の引き上げを開始しました。

しかし、米国とソ連の分割統治で北38度線が閉鎖されました。

そのため、避難も足止めを余儀なくされ、引揚げは困難を極めました。

飢えや病で命を落とす人も大勢いました。(以下、2021/8/15付、中日新聞)。

名古屋の女性、体験伝える

写真:富田さんが説明した、北朝鮮から日本への引揚ルート(2021/8/15付、中日新聞)。

 

・・・76年前の終戦当時、3才で朝鮮半島から引き上げた富田祥子さん(79)が、

=名古屋市瑞穂区=が近年になって、そのかこくな体験を語り始めた。

徒歩で山の中を逃避する途中で、売られたり命を落としたりする同世代の子供も多かった。

「何があっても戦争が起きない世の中にしたい」との決意を込め、つらい過去をつたえている。

北朝鮮での生活状況

・・・富田さんは、旧満州に近い茂山(現在は朝鮮民主主義人民共和国=北朝鮮)で家族と暮らしていた。

父の環(たまき)さんは発電所に関わる仕事をしていたが、召集されて戦地へ。

終戦時は母の節恵さんと父方の祖母、一歳半の妹の四人がいた。

幼かったためにどんな生活だったか記憶はない。冬は氷点下30度近くまで下がる時があったこと、

夏はヒマワリが咲いてリスが種を食べに来ていたことは後から聞いて知った。

ごく平凡な暮らしをしていた平凡な幼児だったと考えている。

北朝鮮からの逃避行が始まる

・・・平凡な日常が、敗戦で府日常に変わった。鍋などをくくりつけた、

リュックを背負った大人たちと広場に集ったことを覚えている。

終戦の2日後ぐらいで、山の中をひたすら歩く集団逃避行の始まりだった。

節恵さんは「年寄と子供連れの私たち家族が一番先に脱落してしまうだろうと思った」と死ぬまで語った。

戦争体験が幼児・母に与えた影響

・・・富田さんは戦後、「母に逆らえず、感情表現が苦手な子供になった」という。

それは戦争体験に起因していると考えている。

逃避行の間、姿を見せなくなった子供がいたが、母からは「親に川に沈められ、殺された」と聞かされた。

集団についてこれなくなったためだった。「150円で現地の人に売られた」子供がいたと聞いた。

同じ目に遭わないよう、親を困らせないことばかりを考える子供になっていた。

母との関係が苦しかった時期もあった。節恵さんからは、2008年に93才でなくなるまで、

「あんたを150円で売ってくれば苦労しなかった」と繰り返し言われた。

だが、節恵さん自身もつらい記憶を忘れられずにいた。

高齢になってからも、高い山を越えても山があり、重い荷物を背負って下せない夢をよく見ていたという。

今は「戦争は母の心も傷つけていた」と思える)。

 

体験を語るようになった現在の活動

・・・富田さんは生協で働く傍ら、平和活動や学習会に熱心に関わったが、自身の体験はあまり語ってこなかった。

戦後70年を前にした年に、記憶をたどって手記に残し、知人に読んでもらった。

「多くの人に伝えて欲しい」と励まされ、平和集会などの機会に体験を語るようになった

忘れられない母との会話

・・・中学の時、戦争の苦労話ばかりを繰り返す母に「なぜ戦争に反対しなかったの」と尋ねたことがある。

「反対できなかったのよ」と逆に怒鳴りつけられた。今は自分に言い聞かせる。

「どうして反対しなかったの?」と子や孫に言わせないことが、戦争体験をつたえる私の役目だ、と。(2021/8/15付、中日新聞)。

 

朝鮮半島からの逃避行(その2)

・・・太平洋戦争中、満州国(現中国東北部)で過ごした服部四郎さん(95)=名古屋市北区=の苦難の日々は、

終戦後に始まった。帰国のめどが立たない苦難の日々、夜通し歩いた逃避行・・・。

写真:終戦後に満州から引揚げた時の苦労を語らう服部志郎さん(名古屋市北区で)、(2023/8/29、中日新聞)。

満州から生還 幸運なだけ

・・・1946(昭和21)年にともに取り残された日本人千人と帰還を試みるが、船の座礁で半数が亡くなった。

「自分は運が良くて生きれただけ」。当時の苦しみを思い返し、言葉を絞り出す。

同校の船座礁 500人が死亡

・・・「戦後、このことは胸に秘めてきたが、忘れられない。特にたくさんの同胞が亡くなったことは」

そんな言葉で終戦直後の経験を振り返る服部さんは、名古屋市で生まれた。

写真:服部さんが帰国したルート、(2023/8/29付、中日新聞)。。

名古屋鉄道学校土木科を卒業後、1943年に建設大手大林組に入社。

日本の植民地経営に重要な役割を果たした国策会社「南満州鉄道」で働いていた教師から、

現地での体験を聞いたことをきっかけに満州での勤務を希望した。

同年3月に渡り、線路の測量業務を担当。現地では日本人が優遇され、不自由なく暮らした。

1845年8月に終戦を迎えると、服部さんらの生活は一変する。

中国共産党軍「八路軍」の管理課となり、立場が逆転。

日本人は現地人と区別するため、もんぺをきさせられた。

服部さんは建設中だった軍需工場の日本人社宅に千人と生活し、

同軍の指示で塹壕づくりに従事。帰国のめどは立たず、不安な日々を過ごした。

終戦後の苦難 語り継ぐ

写真:1944年の満州で、服部さんと同僚が撮や思い出して描いた満州の地図。

 

1946年10月「八路軍」の撤退を契機に社宅の日本人は帰国を決意。

午前零時に出発し、夜通し歩いて朝鮮と中国を隔てる鴨緑江の満州側の町・安東(現中国遼寧省丹東)に到着した。

朝鮮の漁船と交渉し、それぞれ身に着けていた貴金属を渡すことで乗船することに。

服部さんは腕時計と、先に帰国した日本人から預かっていたネックレスを手渡した。

三隻に分かれ、服部さんは二百人と出航した。「ようやく帰れるんだ」とほっとしたが、途中で大しけに遭った。

女性と子供は船倉に入り、服部さんら男性は甲板の上で暴風雨に打たれ、ロープにしがみついた。

半日ほどたち、朝鮮半島の北緯38度線手前にたどり着いた。

安東を出発した船の一隻、「恵比須丸」が途中で座礁し、500人が亡くなったのを聞いたのは下船後だった。

生死を分けたのは運。「亡くなった人を思うと今もつらい。「一緒に帰って来たかった」。

船で博多港に渡り、名古屋に戻った時には帰国を始めて一か月半がたっていた。

戦後、こうした苦労を周囲に積極的に話すことはなかったが、「体験を語れる人は少ない」と口を開いた。

海の向こうでは、今も戦争が絶えないが、「一般の人が悲惨な目に遭うだけ」と反戦の思いを抱き続けている。(2023/8/29、中日新聞)。

 

中国残留孤児の孤老

写真:旧満州国、泰阜村開拓団の入植地・大八浪と収容された場所・方正県。

残留孤児となった経緯

・・・「2年前に他界した父も中国残留孤児の一人だった」と語るのは、木下貴雄(王栄)さん。

木下さんが、中国残留孤児の子息として寄稿した記事を紹介します。

1942年、私の祖父が長野県からの「新立屯上久堅村開拓団」の警備指導員として、

中国ハルピン・通河県(旧満州国三江省通河県)に渡った。

同開拓団は、終戦の1945年8月の逃避行の中、400人以上の尊い命が凍土に散った。

長野県が送りだした開拓団の中でも死亡者数が多い開拓団の一つであった。

祖父は、終戦直前の現地召集でソ連軍捕虜となりシベリアに抑留され、そのまま日本の地を踏むことはなかった。

祖母は父を出産して一か月足らずで敗戦を迎えた。直後の苦難な逃避行に耐えられず、自殺を図ろうとしたことも。

生後一か月の父を断腸の思いで中国人の養父母に託した

同年冬、通河県濃河鎮の日本人収容所で病死した。今も異郷の松花江の畔に眠る。

中国での生活と帰国

・・・父は中国で養父母の愛情を受けて育てられた。師範学校卒業後に教職に就いた。

中国人の母と結婚し、男女4人の子を授かり、その一人が私だ。

父が中国での社会的地位を敢えて捨てて日本に来たのは、いわば「落葉帰根」であろう。

日本人として、たとえ異国で生きていても、最後は必ず祖国の土に帰ることを願っていた。

帰国後、苦労しながら日本語を習得し、懸命に働いて来た父。

しかしその父は、パーキンソン病を患い、定年後に病状が悪化し75才で亡くなった。

最後は認知症の症状も現れ、「母語がえり」の現象を始め、幻覚や幻聴、俳諧もするようになった。

筆談で意思疎通を試みたが、震える手で字がうまく書けず、

「無理だよ」という目で私を見つめた父の表情が忘れられない。

帰国後の生活の問題点

・・・本人にも家族にも言葉の問題は切実で、日本語の不得手なまま介護制度などを理解するのは大変な事である。

自らの経験も踏まえ、2014年に仲間と「外国人高齢者と介護の橋渡しプロジェクト」という団体をつくりました。

専門知識をもった中国語の介護通訳の育成や、日系ブラジル人なども含め、

外国人のための介護保険のリーフレット作りなどの活動を始めた。

だが、現状では中国語に対応できる介護施設はまだ少ない。

言葉が通じない介護施設での孤独さに耐えきれず、自殺を図るまで追い詰められた人もいる。

体も不自由で助けを求めることも出来ず、数十円のうどんを食べて数日間を忍んだ人も、

末期がんの緩和ケアの説明を理解できずに、自宅で最期を看取った中国人の配偶者や、

経済的事情で墓を建てることが出来ず、亡き人の遺骨を地に還せずにいる家族もいます。

残留孤児の孤老

・・・孤児が孤独になっただけではなく、孤児に伴って日本に移住した二世たちも老いに向かっている。

生活に追われて十分に日本語を学ぶ機会もないまま、いじめや差別を受けたり、

非正規の仕事を転々としながら、新型コロナウイリス禍で職を失い、困窮に拍車がかかって苦しむ人も多い。

無年金問題も生じている。老いた親の介護と自分の老後生活への不安を抱えている。

落葉帰根

・・・父の引き揚げに伴い来日して40年の今年、私は初めて「岸壁の母」の歌で知られる舞鶴港に立った。

私の祖父が昭和30年(1955年)、旧満州からの引き揚げ船・興安丸から見えた日本の姿に、

「母さん、日本に帰って来たよ」叫んだという。その時の思いに触れたくなったのだ。

平湾に復元された「平引揚桟橋」、「引揚記念公園」に建つ「岸壁の母」「異国の丘」の歌碑、

「あゝ母なる國」の碑、引揚記念館にあるシベリア抑留収容所の模型や体験室、数々の遺留品・・・。

それらを眺めながら、旧満州や朝鮮、シベリアなどから命からがらに引き上げてきた人たちが、

引揚げ船から遠く見える祖国日本の姿を目にした時、

平湾の桟橋に足を踏み下ろした時の安堵感はいかほどだったか。

想像もつかない、計り知れないものだったろうと、私は考えていた。

せめて晩年は穏やかに

・・・今ここで。声を大にして言いたい、もう一度、終戦後に国に幾度も見棄てられ、

帰国後も幾度も社会に忘れられてきた、満州移民の生き証人である残留孤児たちの存在を思い出してほしい。

そして、波乱万丈の人生を送り続け、高齢となった今もなお平凡な老後生活を送れずにいる、

”孤老”たちのために、もう一度力になって欲しい。孤老たちにはもう時間がない。

残留孤児たちの存在をみんなで思い出すのはこれが最後のチャンスなのかもしれない。

国策によって、戦争によって人生を翻弄され続けてきた”孤老”達には、

せめて晩年ぐらいは心身ともに平和で穏やかであってほしい。終戦77年目の夏、そんな思いを込めて。

寄稿者:木下貴雄=外国人高齢者と介護の橋渡しプロジェクト代表。(2022/8/16付、人生のページ:中日新聞)。

 

残留婦人のなぜ

・・・「残留婦人」?新聞の社説欄の見出し。その活字に興味を持ちました。

「先ず、知ることから全てが始まる」と、逃避行の体験者は我々に語っていらっしゃいます。すでにご存じかもしれませんが、以下記事を紹介します。

「残留婦人」の生まれた背景

・・・日本が敗戦した77年前。夏が終わり、秋へと向かうこの季節に「新たな戦争」が始まった人がいました。

「満州国」に置き去りにされた元満壕開拓団の鈴木則子さん(記事提供者)です。

鈴木さんは、救済を求めて民間団体「中国帰国者の会」(東京)を設立しました。

その後、2011年に82才で他界した鈴木さんは、戦後30年以上も祖国日本に帰れなかった「残留婦人」の一人でした。

「残留婦人」の生まれた経緯

1932年当時の大日本帝国は「王道楽土」「五族協和」などを掲げ、中国東北部に満州国を建国。

開拓団として日本から百万戸の農民を移住させる計画を策定しました。

そして、昭和恐慌で疲弊した農村などから約27万人が海を渡りました。

この時に移住した人の一部が「残留婦人」

となったのです。

「残留婦人」(記事提供者)の生い立ち

東京で代々青物問屋を営んでいた鈴木さん一家も1943年春、当時のソ連国境に近い興安南省ハラヘイに移ります。

女学校に通い、医師を夢見ていた14歳の鈴木さんの人生は一転し、開拓団の子らが通う国民学校の代用教員になりました。

駐留する関東軍の平坦確保も使命とされた生活でしたが、冬は、氷点下30度になる極寒の地で父母は病死します。

そして、鈴木さんが16才の1945年8月9日、ソ連が参戦します。

関東軍はすでに逃げ出し、開拓団の男性も徴兵され、残るのは女性と子供と高齢者だけ。

自決する人、わが子を殺す人らで惨状を極め、約600人いた鈴木さんの開拓団は全滅したそうです。

生きるため現地で結婚

鈴木さんはソ連兵やモンゴル兵、中国人から襲撃されながら、傷を手当てし、

服や食料をくれる人に助けられ敗戦から一年後、中国人の家に引き取られました。

しかしそれは異国に残された若い女性にはほぼ、「妻」になることを意味します。

鈴木さんも20歳で中国人男性と結婚しました。夫はいい人でした。

五人の子に恵まれ、貧しくても家庭円満でした。でも生きるための結婚には心を痛めたことでしょう。

開拓団には、敗戦時に女性たちがレイプされ、ソ連兵の襲撃から談を守るために、

若い女性が兵士の性の相手に差し出されたとの証言も残されています。

戦場の女性は弾除けにされ、その性や尊厳が傷つけられる。戦争が奪うのは兵士の命だけではなかったのです。

日本に帰国

・・・中国語を必死で覚え、日本語を忘れまいと努めた鈴木さんが日本い帰国したのは敗戦から33年後の1978年。

ここまで遅れたのは、自国民が中国に残るのを知りながら日本政府が放置し、積極的に帰国させなかったためです。

1959年に成立した「未帰還者に関する特別措置法」が決定的でした。

居所不明者は戦時死亡宣告をして戸籍を抹消しました。

敗戦時に13才以上で中国人と結婚下「残留婦人」を「自分の意思で中国に残った人」とみなしていたのです。

その事を明らかにしたのが鈴木さんが帰国した23年後の2001年、

二人の「残留婦人」とともに国に損害賠償を求めて提起した訴訟でした。

国の対応

開拓団を危険な地域に送った上に保護せず、帰国させなかった責任が問われた国は、

旧厚生省が1967年に作成した残留邦人の「資料通報名票」という文書を法廷に提出。

そこには鈴木さんが知らないうちに「帰国の意思なし」と処理された記載があったのです。

鈴木さんに限らず、国策として大陸に渡った女性たちは二度、三度と国に棄てられたのです。

文書の作成経緯は追及しても分からずじまいで、敗訴に終わりました

代理人を務めた石井小夜子弁護士は「中国人と国際結婚した女性はもう日本人ではないから構わなくてもいい~

という、差別的なまなざしがあったのだと思う」と振り返ります。

帰国者に占める2/3は残留婦人

・・・日中両国が国交を正常化した1972年以降の帰国者約6700人の内、2/3を残留婦人が占めています。

この事実は、国が誰に冷たかったかを示しています。

国交正常化後も、在留婦人の帰国は、国が課した親族による身元引受が障害となって遅れました。

日本に帰れず中国でなくなった残留婦人も少なくありません。

戦争は終わった後も人々に新たな「戦い」を呼び込みます。

戦地で戦ったり、シベリアに抑留された兵士だけでなく、本土空襲、広島・長崎の原爆、

沖縄地上戦など戦争の爪痕は、心や体の傷となり、何十年も何世代にもわたって人を苦しめます。

その事は何度でも思い起こさねばならない。

そう心に刻む夏の終わりです。(2022/8/28付、中日新聞)。

 

中国帰国者公墓

中国語で刻んだ石碑が完成

写真:公墓の右前に新たに建てられたっ中国語の碑文の前で手を合わせる木下さん。

 

・・・名古屋市天白区の市立八事霊園にある「中国帰国者公墓」に、

新たに中国語で公墓建立のいきさつを刻んだ石碑が建てられ、

9月3日、帰国者の家族ら約十人が献花して、慰霊祭を営んだ。

中国語で石碑建立の経緯

・・・1930年ごろから国策として旧満州(中国東北部)に渡った開拓移民の内、

1945年8月の敗戦時の混乱で帰国できずに現地の中国人にの養子(残留孤児)や妻(残留婦人)などになった後、

日中国交正常化の1980年代以降に帰国した人たちを対象として1995年に建てられました。

墓石に「平和の碑」と彫られ、現在は26柱が葬られています。

建立当時の費用の関係で碑文は墓石の裏に日本語だけでつづられていた。

しかし、帰国者だけでなく、その家族も中国で生まれ育ったため、

日本語を読めない人がおり、中国語の碑文を加えることが長年の課題だった。

石碑概要

石碑は、縦約50㎝・横約70㎝で墓石の前に建てられ、中国語で刻まれました。

「日中友好・永久不戦を誓い、世界平和への悲願を込めて平和の碑を建立した」などと記されている。

帰国者家族

県内には現在、200世帯以上の帰国者家族がいるという。

公墓管理員会の事務局を務めるNPO法人「中部日中友好手をつなぐ会」の理事木下貴雄さん(57)=名古屋市港区=は、

「これまで国や社会に何度も見捨てられた中国帰国者たちには、

せめて祖国で家族に見守られながら安らかに眠って欲しい」と話している。(2022/9/6付、中日新聞)。

 

逃避行と残留孤児の”孤老”まとめ

・・・逃避行の中で亡くなった方々、日本の地を踏んだ方々及び、残留孤児とその子供たちの帰国後の苦労等々。

「少し前に、こんな悲惨なことがあった。その傷跡は我々の近くで今も続いています

この事実を知って欲しい、「知ることから全てが始まるのだから」と体験者は我々に語っています。

この記事を通して「先ずは、知る事が大切だ」との思いが届けば幸いです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。