1970年、当時24才だった私が2度出かけた大イベント、それは「大阪・万博」でした。
昨年、後期高齢者の仲間入りをした今も思い出す疑問は、「仕掛け人」と「太陽の搭」でした。
そして、「太陽の搭」の作者岡本太郎を誰がなぜ彼を起用したのか疑問でした。
しかし、偶然のスマホ「現代ビジネス」の記事でそれが判明(以下引用)、参考になれば幸いです。
日本万国博覧会(大阪万博)の概要
・・・「こんにちは、こんにちは、西の国から。こんにちは、こんにちは、東の国から。1970年のこんにちは~」。
三波春夫の美声が日本中に響き渡る中、1970年3月15日~9月13日までの半年間、
日本万博博覧会が、大阪・千里で開催されました。(ソースは、「週刊現代」2022/3/26号(講談社)です。
観客数は6400万人
・・・当初の観客予測は3000万人だったが、話題が話題を呼び、
夏休みシーズンに入ると、連日一日60万人を突破した。
結局、当時の日本人の総人口の約6割にあたる計6421万8770人を記録し、
1851年に始まった万博史上最高記録を打ち立てたのだった。
この記録は、2010(平成22年)の上海万博まで破られなかった。
人気パビリオン
100万坪の敷地に所狭しと並んだ全118館のうち、
一番人気を競い合ったのが、当時の「2大国」アメリカ館とソ連館だった。
アメリカ館には、前年11月にアポロ12号が持ち帰ったばかりの「月の石」が展示され、
連日4~5時間待ちの長蛇の列となった。
一方のソ連館も、高さ109mのパビリオンをソ連共産党の搭色である紅色に染め、
内部をソユーズ4号、5号や人類初の宇宙旅行士ガガーリンの肖像などで飾り立てた。
パビリオン効果
当時27歳で、万博をくまなく取材した国際カメラマンの山本皓一氏(78歳)が証言する。
それまで多くの日本人にとって、外国人イコール進駐アメリカ軍でした。
それが初めて77ヶ国もが参加しパビリオンを展示したので、様々な外国人と交流でき、
日本人が国際化していく原動力になったのです。
私自身、ギリシャ館の女性と親しくなり、半世紀以上経った今でも文通しています。
仕掛け人は堺屋太一
・・・あまり知られていないが、大阪万博の「仕掛け人」は、後に作家として有名になる堺屋太一氏だった。
当時の肩書は、通産省(現・国土交通省)企画局第一課万国博覧会準備室係長)である。
堺屋氏は、万博に無知だった当時の政・財・官界を説得し、故郷・大阪に誘致することに成功した。
死去する直前の2018(平成30)年7月に上梓した遺作「地上最大の行事 万国博覧会」でこう吐露している。
<万国博覧会がどれほど巨大な行事か。日本ではオリンピックと並び称されることがあるが、
その規模の大きさでも、歴史の長さでも、まったく比較にならない。
(中略)万国博覧会は、近代日本を創った真に偉大な行催事である>
太陽の搭と岡本太郎
・・・国内外から訪れた観客に、何より強く印象付けたのが、
メインゲート広場に鎮座した地上70mの巨像「太陽の搭」だった。
誰もが足を止め、「なんだこれは?」と見上げていました。
同時に日本から世界に発信していく時代の到来を感じたものです。(山本氏)。
太陽の搭の制作者は開会時に59歳の「爆発する芸術家」こと岡本太郎だった。
選ばれた「爆発芸術家」
開催5年前の1965(昭和40年)10月、財団法人日本万国博覧会協会が設立された。
翌月にはテーマを「人類の進歩と調和」とし、石坂泰三経団連会長(当時79歳)を、協会会長に迎えた。
丹下健三東大工学部教授らを総合プロデューサーに据えることも決まった。
だが最後まで紛糾したのが、「万博の心臓部」ともいえるテーマ館の展示プロデューサーだった。
1851年のロンドン万博の水晶宮、1889年のパリ万博のエッフェル塔のような「万博の象徴物」を展示したかった。
そんな中、前述の堺屋氏の著書によれば、
堺屋氏が沖縄へ向かう船上でたまたま乗り合わせた岡本太郎に強い印象を受け、白羽の矢を立てたという。
「岡本太郎氏がいい」と通産省に提案してみた。
皆の反応は、「岡本太郎って、誰や?」であった。
「漫画家・岡本一平の息子ですよ」と答え、大正時代に描かれた一平の漫画を持ち出して説明した。
(中略)最終的に「破天荒な人がいいだろう」という合意が得られた。
丹下健三VS.岡本太郎
確かに岡本太郎は、破天荒で一匹狼の芸術家だった。
展示プロデューサーに就任するやテーに噛み付いた。
「何が「進歩と調和」だ。人類は進歩も調和もしていないではないか。
縄文土器のすごさを見ろ。今の人類に、あんなもの作れるか。」
そんな岡本が、テーマ館のメインゲート前に置くと主張したのが「太陽の搭」だった。
スケッチ約200枚を持参して提案したところ、丹下健三が猛反対した。
「お前にそんなものを造る権利はない」どうしても造るなら、お祭り広場の屋根の設計を変更して、
太陽の搭を屋根で囲って見えないようにする、とまで丹下氏は言った。
すると岡本氏は烈火のごとく怒り、関係者のいる前で二人は取っ組み合いのけんかを始めた。
「太陽の搭」は、出だしから多難だった。
太陽の搭設計秘話
「あれは万博開幕を2年2か月後に控えた1968(昭和43年)1月の事です。
当時25歳の私が勤めていた東京・代々木の集団制作建築事務所に、
「太陽の搭」の100分の1(高さ70㎝)の石膏模型が届きました。
そこから上田昌吾君と二人で、約1年かけて細密な設計図を描いていったのです。
そう述懐するのは一級建築士の奈良利男氏(79歳)だ。
「まず模型のレプリカを作って、それを1㎝ずつ輪切りにして型を取りました。
そして例えば腕の部分なら、4つの円弧をつないで設計しました。
全身をすべて幾何学的な設計図に落とし込んでいかないと、実際の像を造れなかったのです」。
二人は一時期、近くの南青山にあった岡本アトリエに足繫く通ったという。
そんな中で、上田氏が強く印象に残っているのが、岡本の「潔さ」だった。
岡本太郎の感慨
「太陽の搭」を設計図に落とし込んでいくと、どうしても幾何学的で均整が取れた像になってしまう。
それに気づいた(岡本)先生が、「これは俺の作品ではない」と言い出しました。
その時、千葉一彦さん(テーマ館サブプロデューサー)が、
「発注芸術なので視点を変えていただきたい」と意見すると、
先生は、「そうだな、分かった」と承諾してくれたのです。
1969年になると、二人は千里の会場に泊まり込んで、日々変化する設計の修正に追われた。
上田氏が続ける。太陽の搭の背中側に急遽、「黒い太陽」を加えたり、
両腕部分の設計を微調整してギリギリまで大屋根にぶつからないようにしたりと、徹夜作業の連続でした。
大屋根に穴を開けて「太陽の搭」を突き抜けさせたため、雨が降った時の問題が生じると、
先生は言いました。「扇風機を並べて飴を吹き飛ばせ!」(笑)」。
こうして何とか、開会に間に合わせて完成した。
太陽の搭、完成
「完成を見届けに来た先生が、自分の作品である「太陽の搭」を見上げて、
ギョッとした表情になり、絶句してしまったんです。
私はすぐ後ろで見ていましたが、その時の表情が忘れられません。
本当に感慨深かったのだと思います。(上田氏)
52年後の現在、会場は万博記念公園に生まれ変わり、永久保存された「太陽の搭」は、
3年後の大阪・関西万博を待ち受けている。(週刊現代2022/3/26日号)。
番外:岡本太郎展、情報
2023年愛知で開かれる「岡本太郎展」情報を追加掲載します。
愛知県美術館
- タイトル:史上最大のTARO展がやってくる。
- 開催期間:2023/1/14~3/14。
ご参考:展示会作品紹介
展覧会 岡本太郎、展示作品紹介。講演会・関連イベント情報、その他
日本万国博覧会の概要のまとめ
・・・近年スマホを切り替え、様々なニュース・情報など目にする機会が増えました。
そんな中、長年漠然とした疑問が、今回のスマホニュースの記事で解決しました。
事の大小はありますが、偶然の出来事は物事だけでなく、人間同士の出会いでもあるのではないか。
例えば、堺屋太一氏と岡本太郎氏が、偶然同じ船に乗り合わせ、そこで二人が会話を交わした事。
何か見えない力が働いて、そうさせているのではないか。
我々の日常は、そんな偶然の重なりの中に存在しているのではないかと思えるのです。
ご存じの記事の内容かと思いますが、最後まで読んでいただきありがとうございました。