愛知県美術館、近代日本の視覚開化 明治展
・・・呼応し合う西洋と日本のイメージとの注釈で、「近代日本の視覚開化 明治」展が開催されました。
普段あまり目にしたことのない明治関連の展示物、
その物量の多さ(300点超)にビックリ!
国内有数の明治関連所蔵品を誇る神奈川県立歴史博物館とのコラボ、
「神奈川から愛知とのつながり」を見つけに行きました。
なお、第一章~第四章の説明は、入場口で頂いた明治展独案内(=鑑賞ガイド)からの引用です。
本展示会鑑賞にお役に立てば幸いです。
第一章、伝統技術と新技術
<第一章、明治展独案内より>
・・・謎多き知事の肖像画、いつ・誰が・なぜ?初代から四代の肖像画一挙公開!
明治は現代に直結する国と地方の形が定まっていく時代でした。
ご存じ「廃藩置県」(1871年)です。
愛知県は明治5年に設置された、今日に至ります。
県の足跡を知るには公文書がおススメ。
多くの行政文書が県の成り立ちを教えてくれます。
五姓田派
西洋から日本に入ってきた新しい技術を熱心に研究し実践する人々が、幕末から続々と現れました。
模倣から次第に本格化していく、絵画や写真の様々な学習と実践、普及の様子を、先ず紹介します。
多くの外国人が居留し、その外貌を急速に変えていった横浜では、
初代五姓田芳柳ら五姓田家を中心とした画家集団・五姓田派が、
西洋絵画の陰影などを伝統技術で疑似的に模倣して、来日外国人らの肖像を描き販売しました。、
初代芳柳の子息義松は、翌濱居留地に棲む英国人画家チャールズ・ワーグマンに入門し、鉛筆画、水彩画、油彩画の技術を見に着けました。
五姓田の工房に集った画家たちは各地からの制作依頼にこたえながら、
西洋画を模した伝統技法と、本格的な西洋画技法を同時に実践し、国内へ普及させていきました。(第一章キャプション)。
愛知県公文書館の収蔵品の中で少し風変わりなのが、歴代知事の肖像画及び肖像写真です。
県政をリードした知事の姿を伝える作品であり、明治の美術の足跡を物語る作品でもあります。
その初代から四代までは共通して、二世五姓田芳柳の筆になります。五代目以降はすべて写真。
なぜ四代目までは絵画なのか。そして作者の二世芳柳とは何も煮なのか。
これらの謎を解明しながら明治の美術の一端と愛知県のつながりを考えていきましょう。
二世芳柳は、幕末明治に横浜で輸出絵画を専門にして栄えた絵画工房である五姓田派に学んだ一人です。
工房の創始者は初代五姓田芳柳。
西洋画のような見た目の作品を描いて来日外国人からの人気を獲得しました。
二世芳柳は、明治前期を代表する絵画工房の将来を嘱望された若手画家だったのです。
横浜絵
伝統的な絵画技術に西洋という新しい要素を加えて、
来日外国人向けの土産品として展開した絵画全般が、横浜絵と呼ばれてきました。
五姓田派の絹地の肖像画、五姓田義松らの水彩画による風俗画などそこに含まれる作品の幅は広かったです。
明治初期洋画の傑作と呼び声高い一作。この作品を描いたときは20才。
像主は、義松の母の病床の姿で、翌日息を引き取ります。
まだ洋画が日本にきちんと根付いていない時期に、
油彩画の本質的な技術と、人を真正面描こうという精神が合致した稀有な一品です。
高橋由一
高橋由一は幕末から洋画に憧れ、蕃書調書で研究しました。
慶応2年にチャーチル・ワーグマンに入門、9年からはフォンタネージに学ぶなど洋画の習得に集中しました。
その作品の特徴は、質感です。
モチーフであるモノの質感を描き、鑑賞者にその魅力を訴えました。
「甲冑図」は明治10年の内国勧業博覧会出品の代表作のひとつ。
翌年の名古屋博覧会にも出品されました。
第二章、学校と図画教育
<第二章、明治展独案内より>
・・・小栗令裕見参、謎多き男と愛知のつながり。
美術教育から彫刻、工芸まで。
小栗令裕
写真(明治展独案内):欧州婦人アリアンヌ半身、小栗令裕作。
小栗令裕をご存じですか?今、美術に詳しい人達のなかでも、彼について詳細を知る人はほとんどいません。
しかし、調べてみると、今回の展示会の端々に関わり大変に興味深い人物と判明しました。
小栗は、嘉永5年、西暦でいうと1852年の生まれと考えられます。
祖父の代から狩野派に学んだ絵師で、父や兄も絵師だったようです。
この展覧会では地図を紹介し、そのその測量や作図に岩橋教章や橋本雅邦など、
狩野派に学んだ絵師たちがかかわったと紹介しています。
この小栗も同様で、その延長線でしょう。
明治6年、工部省に入り測量などに従事しれたと推測されます。
その後、同省が設置した後部美術学校彫刻科に入り、改めて西洋美術特に彫刻を学びました。
<欧州婦人アリアンヌ半身>は、現在アリアドネと一般に知られる彫刻の模造と推測できます。
髪型や衣装などに変化を付けるものの、大部分は共通します。
コピーすることにより、その造形の本質をりかいしょうと摺る試みは、平面造詣の模写とも共通します。
山本芳翠
写真:月下の裸婦、山本芳翠。
ここで山本芳翠について触れておきましょう。
彼は五姓田派に学び、小栗と同じく工部美術学校に学びました。
しかし国内では満足に洋画技術が学べないと考えたのでしょう、その技術研鑽の目的で渡仏します。
月下の裸婦は、シャルル・ジョシュア・シャプラン雲の上で眠るセレーヌの模写です。
つまり、小栗が実践した作品と同様の意図、コピーして技術を学ぶという試みだったとご理解いただけるでしょう。
そして、この様な作品を日本へ持ち帰ることもまた、留学生の役割でした。
寺内信一
寺内信一、「裸婦」。第二章の中でもひときわ目を引く作品。陶製の彫刻、
また日本人女性がモチーフという点でも類例が少ないために面白い作品です。
絵画でも人物・人体は近代の新技術で最も集中的に制作されました。
立地でしかも陶製そのテーマに挑戦した寺内の素直さが不思議に思えるかもしれません。
しかし第四章の眞葛焼を考えると、当時の技術力でも十分に実現可能だったとも本作から理解できます。
第三章(1)、印刷技術と出版
<第三章、明治展独案内より>
・・・明治の印刷革命、木・銅・石・そして写真へ。
多種多様な版画印刷の競演。
この展覧会では、まず肉質絵画が最初に並び、
会場中盤以降に立体造形が登場します。
大きな作品に目を奪われることでしょうが、
一方で本展の序盤から終盤までリズムを作り続ける存在が版画や印刷物です。
肉質絵画や彫刻が、富裕層や公共の場の為の制作とすれば、
版画印刷物は庶民の私的な場のための制作と対比的に位置づけることまで来ます。
それらを合わせてご覧いただくことで、
明治という時代の美術・造形の世界の大きさを体感していただきたいのです。(第三章、明治展独案内より)。
名古屋石版舎
明治の名古屋の印刷をリードした印刷会社のひとつに、名古屋石版舎があります。
愛知県士族の吉田道雄が明治12年に、名古屋石版舎設立しました。
吉田は東京の石版印刷会社の知新堂を見て、
その活動こそ文明開化に必須であると直感し、
知新堂から機械や技術者の援助を受けて営業を始めたといいます。
吉田はそれ以前から新聞販売店や理髪店を経営するなど、
新時代の技術に敏感だったと考えられます。
また吉田は、政治活動も活発に行った人物で、
明治21年から11年以上、県会議員を務め、22年ヵらは名古屋市議会議員も務めました。
吉田の中で印刷と政治活動は密接に繋がっており、
印刷メディアが政治や社会に必要だと理解していたに違いありません。
宮下写真館と宮下欽
この度の展覧会の最大の目玉と言って良いでしょう。
それが宮下写真館関連の写真の発見です。
これまでもその存在は文献資料からは把握できていましたが、
この度、ご子息の方のもとに多くの写真があると分かり、まとめて公開する運びとなりました。
宮下欽は、横山松三郎に学んだ写真師。明治8年に名古屋で宮下写真館を開業。
最盛期の双眼写真には、東京の銀座や愛知の瀬戸が写されているなど、珍しい写真ばかりです。
特にここに紹介する名古屋城は、鯱のない姿という点でも貴重です。
河野次郎
名古屋の明治初期の洋画を語る上で河野次郎は欠かせません。
安政3年(1856)生まれの河野次郎は、足利藩士。
最初は南画を学びましたが、明治7年、高橋由一から洋画絵を学びます。
9年に足利に戻り、教師としての活動をスタートさせました。
すぐに愛知県第一師範学校に戻り、指導を始めました。
15年に長野に移るまでの短い時間が河野の名古屋時代です。
短くも濃い活動だったと遺された作品からわかります。
特に、その初期の指導の内容が教科書「画学楷悌」からわかります。
また明治10年前後に描かれた水彩画を中心とした作品群を見ると、素直な観察に基づく写生や模写が特徴と言えます。
第三章(2)、印刷技術と出版(新聞記事)
<印刷技術が明治美術を変えた>
絵画や写真、印刷物などを通して明治時代の美術の動向を紹介する展覧会「近代日本の視覚開化 明治」が、
愛知県美術館(名古屋・栄)で開かれている。(2023/4/14~5/31)。
西洋の文化がもたらされている中、化学美術の発展に沿うように花開いた芸術の多様さがよくわかる展覧会だ。
地形図に肖像絵画、戦場を模したパノラマの解説図・・・。会場では、思わずこれは美術なのか?と突っ込みたくなる資料が並ぶ。
「明治時代、新しい技術の実用化には、今でいう美術が大きくかかわっていた」と展示を担当した中野悠学芸員。
現代では地図と美術が結び付けられることはあまりないが、当時は絵師が地図の制作に携わっていた。
色彩豊かな木版画の絵地図、河川や稜線などを精密な線で表現した銅版画の時計図など、目的に応じて多彩な地図が作られていたことが分かる。
江戸時代、もののイメージを大勢で共有することに大きな役割を果たしたのは、浮世絵に代表される木版画だった。
明治時代でも版画は重要なメディアだったが、大量印刷に適した石版画と銅版画の技術が普及すると、出版物の種類は格段に増加。
柔らかいグラデーションなどの表現も可能になり、図版の入った美術雑誌も広まった。
黒田清輝、山本芳翠ら有名画家による「美人画」の石版画は新聞の付録として人気を集め、のとの美人画ポスターの源流となった。
名古屋でも、最新の技術が美術の活動を牽引した。自由民権運動に身を投じた人物として知られる吉田道雄(1853~1924年)は、
1890年「名古屋石版舎」という印刷会社を設立。石版の下絵や油彩画を担当する絵師も迎え入れ、作品を販売した。
石版画には日本武尊や楠木正成といった人物の逸話を題材としたものもあり、当時の明治政府が推し進めていた皇国史観の影響がにじむ。
中野学芸員は「現在でいう一つの肩書で語れない人が複雑に関わり合っていたのが、明治時代の美術の特徴でもある。
作品や資料の背景を読み解いていくと、美術と社会や政治との関係、人やもの同士の意外なつながりが、
うっすらと見えってきて面白い」と話す。5月31日まで。(2023/4/21日、中日新聞)。
第四章、博覧会と輸出工芸
<第四章、明治展独案内より>
・・・発見、明治瀬戸の写真。博覧会から考える。
美術と産業のひとつの分岐点。
宮下写真館の作品群
第三章でも述べましたが、この度の展覧会で、担当者一同が大喜びした発見が、宮下写真館の作品群でした。
その存在によって、明治の名古屋の写真が分かり、
また第四章でご紹介する明治の愛知の製陶業についてもつながりを持つことができたからです。
<瀬戸村工房>
(写真:右端)この独案内で注目したいのは、写真の周囲に書き込まれた文字です。
その中の一点には「尾州瀬戸村川本桝吉細工室ニテ陶車ヲ用ユル所」となっています。
その書き込みによって、誰がどのような作業をしているのか、
また周囲はどのように認識していたのかがはっきりと分かるからです。
(写真:左端)同じ写真でもう一つ面白い書き込みがあります。「明治11年博覧会出品品制作中」とあります。
展覧会ではなく博覧会というところが面白いところ。
明治11年博覧会というと、愛知県博覧会そしてパリ万国博覧会があります。
どちらの為かは判然としませんがしかし、
自身の制作を世に知らしめようという目的は同じでした。
このような工房内部での制作風景を、部外者の宮下欽が撮影できた、その背景も気になるところです。(明治展独案内)。
博覧会と展覧会
実は博覧会と展覧会言葉の違いには、大きな隔たりがあります。
明治初頭は未分化だったのが、こののちイベントの内容が精査され、
今日の理解のような違いが生まれてゆきます。美術館
つまり、産業や観光振興を目的とする博覧会と、
文化顕彰や美術振興を目的とする展覧会という性格の分離です。
需要開拓への工夫
油彩画や水彩画のような筆致で薔薇を描き、金盛を華やかに施した飾壺です。
従来の様に「日本らしさ」を押し出すばかりでは欧米での需要が続かないだろうことを看破した大倉孫兵衛は、
陶磁器の絵付けを日本風のものから西洋風のものへ転換することを決意します。
そして西洋の技法や表現を取り入れて、ジャポニズムの文脈に依らない需要を開拓しました。
<国内外の博覧会>
開国後、日本のイメージを広く知らしめ、技術発展や啓蒙の場となったのが、国内外で開催された博覧会でした。
世界規模で様々な文物が一堂に集まる万国博覧会は、
各国が自国の産業や文化の水準をアピールする場となり、
明治政府にとっても、先進欧米諸国に日本の威信を示す格好の機会となりました。
<工芸品の輸出>
その中で重要な役割を担ったのが陶磁、漆器、七宝、金工、染色などの工芸でした。
欧米諸国に比べて重工業の発達が遅れていた日本にとって、
高い技術力に支えられた手工業である工芸の輸出が、外貨獲得のための友好な手段だったのです。
日本の工芸に対する海外の評価に手ごたえを感じた明治政府は、
国家戦略の一つとして輸出工芸の新興を図りました。
この機運に乗り、多くの職人たちが新たな販路を求めて輸出工芸の制作に参入しました。
古くからの窯業地である瀬戸の初代川本桝吉をはじめとする職人たちは、
国内外の博覧会に数多く出品し、受賞を重ねています。
輸出陶磁器の需要拡大にともない、
古くからの窯業地以外の土地でも新たに製陶業が興りました。
貿易港という地の利がある横浜では、瀬戸や有田から素地を仕入れ、
外国人の好みに合わせた絵付けを行い仕上げる業態が生まれました。
京都から移住した初代宮川香山の眞葛窯では完成までの全工程を行い、
高浮彫技法に代表される高い技術と優れた意匠は、
万国博覧会を通じて世界的な評価を得ました。
ブログ記事:横山美術館の企画展、東京・横浜焼。明治~大正の主要窯場。
七宝のおける釉薬の改良
七宝に用いられる釉薬は、明治10年代に目覚ましく改良されました。
つまり、失透性のいわゆる「泥七宝」ではなく、透明性の高い表現が可能となりました。
(右)蜻蛉文七宝手箱は、銀の素地に稲穂模様を彫刻し、紫色の釉薬を透かして見せています。
名古屋の川口文左衛門の作で塚本貝助に七宝を学んだとされます。第5回内国勧業博覧会出品作。
有線七宝と無線七宝
白鷺の嘴と目は金属線で区画する有線七宝で輪郭を作ります。
一方身体は、釉薬をさした後に金属線を取り除く無線七宝という技法により、地に溶け込むような柔らかな陰影を表しています。
銘には「大日本 名古屋 児玉造」とあります。
<輸出商社の発展>
民間の輸出産業も発展し、生産から販売まで一貫して行う輸出商社も現れました。
七宝会社は名古屋近郊の七宝を買い付けるほか、
竹内忠兵衛や鈴木精一郎ら高い技術を持つ職人を自社で雇い、
また濤川惣助とも提携して、良質な製品を輸出しました。
「ノリタケ」ブランド誕生
国内の雑貨を輸出していた森村組は、明治20年代に製陶業を新規に立ち上げます。
そして欧米の大市場に向けた生産工程を見直すなかで横浜や東京の絵付師たちを名古屋市ノリタケの途に移住させ、
生産の一貫体制を確立し、明治37年に日本陶器合名会社を設立しました。
その所在地の名前からブランド名を「ノリタケ」とし、
今日の大規模製陶グループの基礎が築かれました。(以上、第四章キャプションより)。
六代目森村市左衛門とモリムラ・ブラザーズの創業者、森村豊(1854‐1899年)
森村市左衛門
15歳年の離れた豊の異母兄、森村市左衛門(1839‐1919年)は、
浜居留地での商売の経験や、福澤諭吉との交流を通して、
外国の商人や商館を通してではなく、日本人が自らおこなう「直(じき)輸出」で外貨を稼ぐことの重要性を日頃から認識していました。
森村豊
その頃、すでに1867(慶應3)年に渡米してニューヨークでビジネスをおこなっていた佐藤百太郎(ももたろう)という人物が、1875年に一時帰国しました。
佐藤は、日本から輸出される茶、絹、陶器、漆器などの物産と、
アメリカで製造された機械などの製品を交換することを目的とした自身の会社をニューヨークに設立しており、
そこで働く「商業実習生」にふさわしい日本の若者を探すために帰国したのです。
その頃の森村豊は、1874年に慶應義塾を卒業した後、そこで助教授として勤めていましたが、
福澤諭吉の勧めで、この商業実習生の一人としてアメリカへ渡ることとなったのです。
「モリムラ・ブラザーズ」創業者の森村豊が、貿易業を志してアメリカに渡り、ニューヨークでビジネスを開始するまでの経緯についてご紹介します。
「モリムラ・ブラザーズ」として開業する以前の話で、市左衛門と豊の2人は、
当時市左衛門が営んでいた「モリムラ・テーラー」という洋服仕立て屋の2階の一部を事務所として、1876(明治9)年に、貿易商社「森村組」を設立しました。
森村組設立
国内の雑貨を輸出していた森村組は、明治20年代に製陶業を新規に立ち上げます。
そして欧米の大市場に向けた生産工程を見直すなかで、
横浜や東京の絵付師たちを名古屋市ノリタケの途に移住させ、
生産の一貫体制を確立し、明治37年に日本陶器合名会社を設立しました。
その所在地の名前からブランド名を「ノリタケ」とし、
今日の大規模製陶グループの基礎が築かれました。(第四章キャプション)。
ブログ記事:オールドノリタケ×ノリタケの世界展、横山美術館所蔵品
<七宝会社と濤川惣助>
七宝会社の設立は、愛知県令今井関盛良と小野組の村松彦七が七宝輸出に目を付けて、豪商岡谷惣助に設立を勧めた。
塚本甚右衛門が工場長となり、明治6年には村松が入社し、
名古屋において積極的に事業を展開しました。
明治11年のパリ万博で七宝会社は金・銀・銅牌を得ますが、
それでも村松は英仏に及ばないことを認識しています。
一方、濤川惣助は明治10年の第一回内国勧業博覧会で七宝を見て感銘を受け、同年12月に愛知県に出発しています。
岡崎の永楽善五郎の新窯及び製作実況を参考に製品を購入、
原料産地を渉猟し、瀬戸では各製造家に製造の実際を探っています。
そして名古屋七宝会社の製造方法を視察して看過を受け、
明治11年1月下旬に帰京、2月中旬に日本橋区新右衛門町に販売店を開いて瀬戸、
名古屋の陶磁器及び七宝会社の七宝、横浜など関東の製品販売を始めています。
明治13年5月に牛込神楽町に新工場を設立し、
同年8月に「省線七宝墨画蓮ニ燕ノ図名刺皿」2個を作成、
七宝会社の村松がこの新式に賛同して同盟を申し込み、
工場に七宝会社製造支場の章標を掲げた。以上が七宝会社と濤川の接点です。
後に濤川の代名詞となる無線七宝の可能性を見抜いた七宝会社の先見の明といえるかもしれません。
・・・中略。しかし、明治18年の村松の死去により七宝会社は解散を余儀なくされ、
明治20年には七宝会社東京工場は濤川に譲られました。
東京府工芸品共進会に出品し始めたちょうどこの頃から、
濤川は自作に署名を入れるようになったといわれます。
明治展独案内
明治展独案内(=鑑賞ガイド)
・・・独案内とは鑑賞ガイドのこと。入り口で入手できる「明治展独案内」を手に鑑賞すれば効率的でしょうが・・・、
展示会場委では、薄暗い所で小さい活字をじっくり見ながら鑑賞するのは物理的に困難でした。
よって、自宅に帰ってから、展示会場を思い出しながらじっくり読んだのが正直なところです。
事前に「明治展独案内」を読んでいただき、鑑賞にお役に立てば幸いです。
第一面
<前口上>
美術という言葉は一般的に使われてございますがそのはじまりはご存じですか?
それこそ明治6年、ドイツ語の翻訳誤として、明治に新しく作られた言葉と言われております。
美術という言葉が使われる前にも同じように、今では当たり前に使われる美術に関連する言葉が、明治に生まれたのです。
例えば、版画なんて言葉も明治生まれでした。彫刻は立体の像なんかを想像しますでしょう?しかし、
明治の最初の頃は木版画の版木を彫る行為を調刻と言っていた方が多かったぐらいなんです。
<会場案内(ツアーガイド)>
広い会場でございます。そしてたくさんのモノがあふれる会場でございます。
一説には300点を超える点数だとか。お勧めのご案内、御指南差し上げます。
最初から見ようと順番に見ないで良いのでございます。
好きなとコリから好きなようにご覧ください。
数が多いと目が疲れる、何を見たか覚えていないとなりがちです。
メリハリですね。好きなものに出合ったら、
しばらく立ち止まってください。じっくりとご鑑賞ください。
<おすすめ作品>
本展のチラシなどを華やかに彩る錦絵の制作に関しては、
世界に誇る食器メーカーであるノリタケの礎を作った大倉孫兵衛が、
アートディレクターをを務めたと考えられます。
孫兵衛は製陶業の経営者として知られていますが、もとは錦絵や書籍の販売、今でいえば出版社の社長でした。
縦長にぐーんと伸びた花鳥画は、アメリカ向けに明治10年代に輸出された作品。
色や形によ~く注目してください。現実の草花とは色が異なります。形も微妙にくずれています。
正確性よりも、その大胆な構図や色使いが、アメリカの顧客にはウケたのだとわかります。
<木版画愛好家として思う>
今回の展示会で浮世絵から現在の創作版画へとつながる道筋が見えてきました。
つまり、江戸中期から発展してきた浮世絵は、世界にジャポニズムブームを起こして以後、
明治の輸出工芸の発展の中でさらに、大倉孫兵衛のらの錦絵とつながり、
やがてお土産品として需要の高かった新版画へと発展し、
やがて創作版画活動が起こり、戦前・戦後を経て芸術性を評価された、自作・自刻・自摺の現代版画へと続く道筋が見えてきました。
・・・ここまでが、明治展独案内(鑑賞ガイド)の第一面の概要です。
その後の同(鑑賞ガイド)「第一章~第四章まで」の展示内容は本文中に、明治独案内として記載しました。
本展示会の鑑賞にお役に立てれば幸いです
近代日本の視覚開化 明治展のまとめ
・・・先ずは、普段あまり目にしたことのない明治関連の展示物、その物量の多さに驚きました。
展示物の中心である輸出工芸品の数々を鑑賞し感じたことは、
美術の歴史から明治は、大倉孫兵衛の錦絵・宮川香山の眞葛焼・七宝などが「輸出美術」と位置づけされるなら、
外貨獲得を伴いながら、輸出とともに創造・技術も活性化した「輸出美術発展期」の時期であったと確信しました。
地域的観点からの接点「神奈川から愛知とのつながり」といえば、第四章が主体となる、博覧会と輸出工芸でした。
万国博覧会は、各国が自国の産業や文化の水準をアピールする場となり、欧米諸国に比べて重工業の発達が遅れていた日本にとって、
高い技術力に支えられた手工業である工芸の輸出が、外貨獲得のための友好な手段だったのは容易に想像できます。
代々工夫され引き継がれた地道な根気のいる職人の技に裏打ちされた芸術作品。
つまり、陶磁・漆器・七宝・金工・染色など、明治時代の輸出工芸は、
「日本の経済が軽工業から重工業へ移行しながら発展する基礎となった」と確信しました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。