実に
・・・何が本職なのか?「岡本太郎」は、人間だ!
史上最大のTARO展「展覧会 岡本太郎」がやってくる!
展覧会 岡本太郎
- 展示会場:愛知県美術館。
- 展示期間:2023/1/14~3/14。
- 開館時間:AM10:00~PM6:00(金曜日はPM8:00迄)。
- 休館日:1/16(月),2/6(月),2/20(月),3/6(月)。
最大規模のスケールで人間岡本太郎を体感
・・・絵画、立体、パブリックアートから生活用品まで、強烈なインパクトのある作品を次々と生み出し、
日本万国博覧会(大阪万博)の核となる「太陽の搭」をプロデユースし、
晩年は「芸実は爆発だ!」の流行語とともにお茶の間の人気者にもなった岡本太郎。
彼は、戦後日本の芸術家としてもっとも高い人気と知名度を誇る一人でありながら、
余りに多岐にわたる仕事ぶりから、その全容を捉えることが難しい存在でもありました。
「何が本職なのか?」と聞かれ、彼はこう答えます。「人間-全存在として猛烈に生きる人間」。
18歳で渡ったパリでの青春時代から、戦後、前衛芸術運動をけん引した壮年期の作品群、
民俗学的視点から失われつつある土着的な風景を求めた足跡や、
大衆に向けた芸術精神の発信の数々、さらにアトリエで人知れず描き始めた晩年の絵画群までー。
本展は、常に未知なものに向かって果敢に挑み続けた岡本太郎の人生の全容を紹介します。
過去最大規模の回顧展です。
記事の作品は主に同美術館発行「展覧会 岡本太郎」をもとに制作順に掲載しました。
また年代別に区分された観覧ブースごとのボード説明も紹介しました。岡本太郎の芸術活動の理解に参考になれば幸いです。
岡本太郎の展示作品紹介
・・・岡本太郎の展示作品を年代順に紹介します。その前に彼の作品群の最初のボード説明(第一章)を参考に記載します。
第一章、岡本太郎誕生-パリ時代
人気漫画家であった岡本一平と歌人・小説家・仏教研究家として知られる岡本かの子を両親に持ち、
強烈な個性のあいだで芸術家としての自己を形成していった岡本太郎。
1930年、18歳の岡本は東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学後、半年で両親に同行してパリに到着。
「日本というカラを脱して世界人になろうと願った」彼は、一人この地に留まり、その後1940年までのおよそ10年間を、
当時の最新の前衛運動や思想に触れ、そのうねりなかで過ごすことになる。
学生としての生活を始めるかたわら、1931年初夏(もしくは1932年2月ごろ)、彼は画廊で見たピカソの作品に強い感銘を受ける。
翌年、ヴァシリー・カンデンスキー、ピート・モンドリアン、ジャン・アルプなど、純粋抽象からシュルレアリスムとの融合まで、
多様な角度から抽象表現を探求する作家たちが集まる「アブストラクション・クレアシオン(抽象・創造)」協会に最年少の22歳で参加。
しかし、次第に抽象表現から離れ、クルト・セリグマンとともに「ネオ・コンクレティスム(新具体主義)」を提唱。
決別として(傷ましき腕)を発表し、同協会も脱退する。
その後は、パリ大学でマルセル・モースの民俗学の講義を受けたことをきっかけに、
絵画制作を中断し、当時の思想潮流の最先端を吸収することに専念する。
思想家・作家であり神秘主義者として知られるジョルジュ・バタイユとも強く共鳴し、
彼が組織した秘密結社「アセファル(無頭人)」にも参加する。
岡本の滞欧時代の作品は東京に持ち帰ったのち戦火ですべて焼失したとされており、
後年、再制作された4点と、1937年にパリで出版された初めての画集「OKAMOTO」から、それらの存在が伝えられるのみである。
本展ではこのすべてがそろい、画家・岡本太郎が誕生した最初期の作品の全容を知ることが出来る。
1936~49年
傷ましき腕:1936年(1949年再制作)
国際シュルレアリスム・パリ展に出品され、高く評価されました(代表作)。
第二章(前半)、創造の孤独-日本の文化を挑発する
1940年、ナチス・ドイツによるパリ陥落の直前に帰国した岡本太郎は、
戦時色が濃くなるなか召集を受け、中国で4年間にわたる過酷な軍務と収容所生活を経験する。
1946年に復員したとき、東京・青山の自宅は滞欧作品もろとも戦火で焼失していたが、
岡本は失われた時間を取り戻すかの様に猛然と活動を再開する。
二科展を主な発表の場としながら、「アヴァンギャルド美術家クラブ」や「夜の会」といった前衛芸術の共同体を結成し、
彼の代名詞ともなる「対極主義」を提唱。これは、抽象絵画の合理主義とシュルレアリスムの非合理主義という、
近代精神の裏表ともいえる二つの立場を、矛盾と対立を強調しながらぶつけることにアヴァンギャルド芸術家の使命があるのだという主義である。
要素、抽象と具象、静と動、美と醜といった対局が「調和をとらず、
引き裂かれた形で、猛烈な不協和音を発しながら一つの画面に共在」していた。
灰色のトーンが目立つ日本の美術を挑発するとして、原色を多用したどぎつい配色も反発を呼んだが、
岡本は挑み続ける姿勢にこそ革命的な芸術の創造の可能性があると考える。
わかりやすく芸術の価値の転換を説いた1954年の「今日の芸術」は、ベストセラーになり、
「今日の芸術は、/うまく合ってはいけない。/きれいであってはならない。/ここちよくあってはならない」
という挑発的なフレーズは一般の読者に大きなインパクトを与えた。
第二章(後半)、創造の孤独-日本の文化を挑発する
急速に復興・近代化する日本の社会的事象に反応した作品もこの時期多く描かれ、
1954年のビキニ環礁でのアメリカによる水爆実験および第五福竜丸の事故のイメージは、
翌年の(燃える人)に結実したほか、原爆のモチーフとあわせて、こののち長く彼捉えることとなった。
1937~49年
露店:1937年(1946年再制作)
約40年ぶり、ニューヨークから初里帰り!。
第三章(前半)、人間の根源-呪力の魅惑
1951年、岡本太郎は東京国立博物館で縄文土器に出会い、その造形に日本人の根源的な生命観のあらわれを見いだす。
これをきっかけに彼は、「わび・さび・渋み」に表されるような、すでに形式化されていた日本文化の「伝統」に異議を唱え、
過去を乗り越えながら生み出され続ける、現代の前衛精神と共振するような、
「もう一つの日本の伝統」の系譜について発言し始める。
50年代後半は、「藝術風土記」と題した雑誌連載の取材で、かってパリで学んだ民俗学の視点を活かし全国を旅する。
更に1962年には、日本各地の霊山などを巡って神秘的な行事を取材する。
30年代のパリで近代主義への懐疑から神秘主義に近づいた体験は、土着的な人々の営みに分け入り、人間の根底に触れようとする仕事に棚がっていく。
不可視の世界との交信であるシャーマン文化に強い興味を示しつつ、彼のフィールドワークの対象は、
東北から沖縄に至る日本各地から、メキシコや韓国など世界へと広がり、その足跡は多くの写真に残されている。
第三章(後半)、人間の根源-呪力の魅惑
そしてこの旅と前後して、60年代に入ってからの岡本の絵画では、うねるような動きを持った黒い線が装飾的に画面を覆うようになる。
個々には、呪術的な芸術からの影響とともに、フィルムを排し、描く身振りを強調する50年代後半の世界的な絵画の潮流、「アンフォルメル」への応答をみることもできるだろう。
梵字を線描に置き換えるなどの研究を行い、カリグラフィーと抽象表現の融合の可能性を探ったのもこの時期である。
具体的な意味を失ったこれらの絵画を発表するかたわらで、岡本は、「芸術は呪術である」と宣言し、こう述べる。
芸術行為とは、共通の価値判断が成り立たない、自分自身にすら分からないのものにかけることだ。
そして、理解されない、「自分一人にしか働かないマジナイ」であっても、「それがもしいったん動き出せば、社会を根底からひっくり返すのだ」。
1947年
夜:1947年
前衛芸術家らが集まった「夜の会」の名称のもとになった作品。
第4章、大衆の中の芸術
50年代は、岡本太郎にとって、新しい前衛運動を推し進める活動と並行して、芸術の外側の世界への発信を始めた時期であった。
「職業は人間である」と自称し、分業化された専門性を嫌った岡本は、他分野の表現者たちと交流しながら自分の活動領域を広げていった。
1954年には諸芸術の総合の可能性を探求する拠点として、現代芸術研究所を立ち上げている。
この時代より彼が生涯をかけて手がけた仕事に、パブリックアート公共空間に置かれる芸術がある。
岡本は作品をほとんど売らなかったことで知られるが、その理由は、所有されることで作品が公開されることがなくなることにあった。
彼にとって芸術とは、映画やテレビ、ラジオなどのマスメディアと同等に大衆に広く共有されるものであり、
その後全国70か所以上に設置されることになる彼のパブリックアートはその実現であった。
特に当時工業生産が始まったモザイク・タイルは、技術的に大衆と結びつく手段と考えられ、
1952年、日本橋高島屋デパート地下通路に設置されたモザイク壁画を始め、多くの作品が制作されている。
建築家・丹下健三との最初の協働として丸の内の旧東京都庁舎に設置された陶板壁画は、
1991年に取り壊されるまで長らく彼の代表作として親しまれたものである。
さらに岡本の仕事は、大衆が手に入れ、使うことが出来るプロダクトデザインにも及び、機能主義や合理主義によるのではなく、
生活の中に生命感のあふれる遊びをもたらし「人間と対等づらをするような」ユニークな作品が多数生み出された。
戦後日本の啓蒙的な動向である、グッドデザイン運動の揺籃となった国際デザインコミッティー(のちの日本デザインミッティー)にも参加。
またこの時期には、特撮映画のキャラクターデザインや歌舞伎、オペラの美術など、大衆に向けた多彩な仕事を手掛けていることにも注目したい。
1950年
森の掟:1950年
異質なものを画面に混在させた「対局主義」の代表作。
1952年
顔:1952年
常滑の伊奈製陶(現LIXIL)で制作した。最初にして最大の陶芸作品。
写真:川崎市岡本太郎美術館蔵。
1955年
燃える人:1955年
1954年のビキニ環礁の水爆実験で第五福竜丸が被爆した事件をもとに描かれた。
前述、「今日の芸術第二章(後半)、創造の孤独-日本の文化を挑発する」を参照ください。
1956年
日の壁:(旧東京都庁舎壁画原画)1956年
旧都庁舎の壁画を飾った巨大レリーフの原画。
1964年
愛撫:1964年
岩手の民族舞踊「鹿踊り」に着想を得たといわれる作品で,
うねる線に呪術的なものへの岡本の関心が反映されています。
第5章、ふたつの太陽(太陽の搭)と(明日の神話)
1967年、岡本太郎は、3年後に迫った日本万国博覧会(大阪万博)の統一テーマ、
「人類の進歩と調和」を具体的に示すテーマ館のプロデューサーに指名される。
万博の広大な敷地の中心に、過去、現在、未来が重なり響き合うような3層構造を持つ、
「マンダラ的宇宙」を作りたいという岡本の最初の構想を受けて、
丹下健三をプロデューサーとする建築チームは、シンボルゾーンを覆う巨大な屋根を持った基幹施設のプランを制作。
これを見た岡本は、この合理的な近代建築に対決する、非合理的存在が必要であると直感する。
水平に広がる屋根を突き破る高さ70メートルの「ベラボーな神像」、(太陽の搭)はこうして生み出された。
太郎はこれを、万博へのテーマへの挑戦であるという。「未来への夢に浮き上がっていく近代主義に対決して、
ここだけはわれわれの底に潜む無言で絶対的な充実感を突き付けるべきだ」。
この時期の岡本は、同時進行するもうひとつの大きなプロジェクトにも力を注いでいた。
万博の仕事を正式に委託された翌日から出かけた視察旅行の帰りに、
彼はメキシコに立ち寄り、その作品が設置される予定のホテルを訪れる。
その後万博の準備のかたわら何度も現地に赴き仕上げた作品が、幅30メートルに及ぶ巨大壁画(明日の神話)である。
このホテルは開業前に倒産したため、作品は長らく行方不明になっていたが、メキシコシティ郊外で2003年に発見、
現在は渋谷に移設され駅のシンボルとなっている。作品の中には、放射能の炎に焼かれる人間が描かれている。
原爆の「あの瞬間」が過去のものでなく、「今なおわれわれの肉体のなかに爆発し続けている」と述べる岡本は、このイメージに、
人類が苦難を乗り越え、新たの運命を切り開くためのエネルギーを託している。
本展ではドローイングと異なるサイズで描かれた2枚の精巧な下絵を紹介する。
1968年
明日の神話:19678年
メキシコのホテルの為に制作された幅30mの巨大な壁画。
長らく所在が不明となっていたが2003年に発見された、修復を経て2008年に渋谷駅に設置された。
本展では約11mの下絵を展示
写真:展示作品左側。
1969年
若い太陽の搭:1969年
日本モンキーパークに設置されている搭。
本店では1/20の作品を展示。
1970年
太陽の搭:1970年
大阪万博のテーマ館として建てられた。高さは70m。
本展では1/50の作品和展示。
1970年の三波春夫の万博テーマソングとともに、大阪万博会場に設置された「太陽の搭」、
沢山立ち並んだ外国のパビリオン、アメリカ館の「月の石」、コンパニオン、おじさんの青春時代を思い浮かべます。
太陽の搭と岡本太郎、参考記事
講演会・関連イベント情報、その他
講演会・関連イベント情報
スライドトーク(学芸員による展示説明会)
「太陽の搭」や「明日の神話」をはじめとする代表作を解説するとともに、
岡本太郎と愛知にまつわる知られざるエピソードについても紹介します。
- 日時:1/21(土)1/29(日)2/4(土)、AM11:00~11:40。
- 会場:アートスペースA(愛知芸術文化センター12階)。
- 定員:各回、先着90名。
*申し込み不要・聴講無料・開始時刻に会場に集合。
観覧料
- 観覧料:一般1800円、高大生1400円、中学生以下無料。
- 前売券・団体20名以上:一般1600円、高大生1200円。
展覧会 岡本太郎のまとめ
まとめの概要には、展示会場入り口の「ごあいさつ」ボードの説明が最適と思い、その1として掲載します。
その1、対局主義と本当の調和
・・・「芸術・即・人生」芸術は人生であり、生きることそのものが芸術であると語った彼は、
自身の表現に通底するものを「対局主義」と名付けました。それは、世の中に存在する対立や矛盾を、
調和させるのではなくむしろ強調し、その不協和音の中から新たな創造を生み出すという考えでした。
岡本は、本当の調和とは、お互いに譲り合うものではなく意見を公平にぶつけ合うこと、
また対決とは、ぶつけ合った上でお互いの意見を活かしていくことであるといいます。
彼の孤独な戦いの日々から時を経た現代でもなお、我々を取り巻く世界には、
自由な生活を阻害するような様々な力の不均衡が偏在しています。
彼の作品を通じ、その存在や思想に触れることで、私たちは、この不安定な現代社会をいかに生きるかについて、
多くの指針を得ることが出来るのではないでしょうか。(ボード一部引用)。
その2、強烈なコミニケーション
ここで、「芸術は挑みであり、理解、無理解を超えての、強烈なコミニケーションです」という彼の言葉を思い起こします。
<写真のコメント>
丹下健三(左)と岡本太郎、この二人は14年後、1970年の大阪万博で協働する事になりました。
大阪万博のテーマ館、シンボルの「太陽の搭」の建設は、双方の主張の違いから取っ組み合いをしながらも、
お互いの意見を公平にぶつけ合いながら、しかもお互いを活かした結果、なしえた偉業と確信します。
その3、岡本太郎の提言
・・・印象的だった展示は、出口にある「彼の言葉を載せた数々のボード」の中で、3つの言葉でした。
1、「挑戦した不成功者には、再挑戦者としての新しい輝きが約束されるだろうが、挑戦を避けたままオリてしまったやつには新しい人生などない」。
2、おもしろいねぇ、実に、俺の人生は。だって道がないんだ。目の前にはいつも、なんにもない、ただ前に向かって心身をぶつけて挑む瞬間、瞬間があるだけ。
3、人間は精神が広がる時と、とじこもる時が必ずある。強烈にとじこもりがちな人ほど逆にひろがる時が来る。
この3つの言葉は、現在20年以上創作木版画を続けている私に、癒しと勇気とパワーを与えてくれました。
最後までご覧いただき有り難うございました。