・・・動き出す浮世絵とのタイトルで「動き出す浮世絵展」が金山南ビル美術館棟で開催されていますので紹介します。
タイトルの浮世絵師の生涯・作品の特徴・背景等明解な解説に出合いました。参考になれば幸いです。
動き出す浮世絵展
空間体験 動き出す浮世絵展 NAGOYA
- 開催期間:(2023/7/8~8/28)
- 開催場所:旧名古屋ボストン美術館、金山駅南側。
- 開催時間:AM9:30~PM8:00(最終日PM7:30)。
- 期間中は、休みなし。
アクセス
体験型デジタルアートミュージアム
・・・立体映像空間で浮世絵の世界に投入できる、体験型デジタルアートミュージアムが、
藍・麗・雅・彩・豪・錦・眺など各ブースに分かれ展示され、丁寧なキャプションがついています。
じっくり読みたいのですが、後期高齢者にとって、長時間立ち止まってそれを見続けるのには体力的に限界を感じます。
当ブロブに、個々の各ブースのキャプション内容を可能な限り掲載しました。ご参考になれば幸いです。
藍色の世界
世界から「ジャパン・ブルー」と絶賛される、水の表現を体感する藍色の世界。
千差万別の表情を見せる水。浮世絵師たちの生涯のテーマである「水の表現」。
海の波濤や雨景は描き手によって表情を変え、異なる藍色を見せる。
葛飾北斎:富嶽三十六景 神奈川県沖浪裏
ここでは、浮世絵師たちが描いた海や波、雨といった水の共演、
映像技術による投入体験と幻想的な青の空間に浸る唯一無二の浮世絵空間を創出。
スローモーションやカメラがない時代、
水の「一瞬の姿」を捉えた浮世絵師たちの洞察力や表現力は世界で高く評価されている。
時代を越えて人々を魅了する浮世絵の大迫力の水の表現、
画力、各作品の秀逸さを感じられずにはいられない。
麗
繊細に表現された美人画と、花の世界を巡る。
髪の毛一筋までこだわり抜いた繊細な表現で、美人画に革新をもたらした喜多川歌麿。
幕末の浮世絵界で庶民から圧倒的な支持を受けた歌川国貞。
細やかな仕草や喜怒哀楽が表現された多彩な美人画を、華やかな花々と共に彩る空間。
美人画の味わい深い点は、なんといっても「線」。はらりと落ちる柔らかい髪、
物思いにふける眼差し、布の質感、絶妙なニュアンスが、一本の線で流麗に表現されている。
影を使わず、立体物を「線」で描きあげた浮世絵師たちの技巧を感じながら、
あなたの感性を刺激する特別な美人画を見つけてみては。
喜多川歌麿:婦人相十品ポッピンを吹く娘
雅
心躍る圧倒的お江戸ポップカルチャーが現代によみがえる。
彩
美しい色合いに圧倒!季節のうつろいを鮮やかに彩る。花鳥風月の空間。
日本は、豊かな四季を彩る美しい草花と、そこの寄り添う生命から、時のうつろいを感じることが出来る。
葛飾北斎と歌川広重の、繊細な筆さばきと凄れた観察眼や画力が光る花鳥図と風景画をメインに、
日本の四季の美しさを幻想的な映像で彩る空間。浮世絵たちは、
植物のみではなく、その中で息ずく生命の輝きを絵の中に表現し、豊かな市場に富むストーリーを作り上げた。
古来より愛される、花鳥風月の空間をお楽しみください。
歌川広重:名所江戸百景 亀戸梅屋舗
豪(ごう)
力強く躍動するヒーローたちの姿が高い人気を誇る武者絵。
劇的な瞬間が描かれた武者絵は、豪快で荒々しいエネルギーを放っている。
それまでの浮世絵の常識を打ち破る大パノラマ絵を完成させた歌川国芳の水滸伝シリーズをはじめ、
妖術師を描いた歌川国貞による「豊国揮蒙奇術競」など、圧倒的に力強い作品を厳選。
雷鳴轟く嵐や灼熱の業火の中で躍動する神々や武将など、
荒々しい生命力にあふれた豪傑たちの雄姿を堪能ください。
国芳:五将軍見立伍人男 関羽
錦(にしき)
役者の真の姿に迫った東洲斎写楽。彗星の如く現れた謎多き絵師が、
当時の歌舞伎界のスターたちの「大首絵」をダイナミックに魅せる空間。
写楽は、人物を美化させる風習を打破し、役者の特徴を誇張することで、
劇的な表現やその存在感と魅力を引き立て、独自の世界と造形を作り出した。
江戸の人々を驚愕させた、個性的な顔 表現、斬新な表現技法、
歌舞伎の役柄に合わせて描く筆の力強さから生み出される作品の秀逸さを感じながら、
写楽「大首絵」の世界をお楽しみください。
写楽:五代目大谷鬼次の江戸兵衛
眺
並外れた観察力と想像力でけっさきを生み出し、
名所絵を極めた風景画の達人・歌川広重とめぐる日本の四季。
「富嶽三十六景」シリーズをメインに多様な富士山を力強く描いた天才絵師・葛飾北斎とめぐる。
情緒あふれる江戸の風景。浮世絵師が見た世界を旅するような没入体験。
今も昔も変わらない旅への強いあこがれ。
日本中の名所を旅した絵師たちが描く詩情豊かな風景は、世界中の人々の琴線に触れる。
その他の展示
さわって遊べる、インタラクティブ展示や輪投げ・浮世絵釣りなど遊びがいっぱい。
須田亜香里さん「浮世絵に感動」
浮世絵展動き出す」作品展見学
金山の金山南ビル美術館棟で開かれている展覧会「動き出す浮世絵展」に、
元SKE48の須田亜香里さんが訪れ、作品を見学した。
同展は、東洲斎写楽らの浮世絵300点以上を3Dアニメなどデジタルで表現。
同展をPRしてもらおうと。主催するテレビ愛知が須田さんを招いた。
須田さんはプロジェクションマッピングも駆使して、
海や波を描いた部分が投影される「藍」のコーナー等を興味深そうに見た。
クジラや魚が泳ぐ様子も現れ、「水族館みたい」と笑顔を見せていた。
歌川国貞による勇猛な武者絵、歌川広重や葛飾北斎による花鳥風月の作品も見て回った。
「頭から足先まで全部が浮世絵の中に入り込むスケールの大きさ。
音も含めて絵の世界に連れて行ってくれ、魅了された」と須田さん。
来場者には「自分の体に映し出される浮世絵にも感動し、SNS(交流サイト)に載せたくなる。
白い服を着て誰かと来て、撮影も楽しんで」と呼び掛けた。同展は28日まで。(2023/8/16、中日新聞)。
浮世絵師
・・・浮世絵師について、葛飾北斎・歌川国芳・歌川広重・東洲斎写楽・喜多川歌麿・歌川国貞を取り上げています。
前述浮世絵師の説明パネルが、各作品の特徴とその時代背景及び画風の変遷等など詳細に記述してあります。
この度の展示会で、この説明パネルに出合いラッキーと思い題目に浮世絵師6名を記載しました。参考になれば幸いです。
浮世絵師の祖は菱川師宣
浮世絵師の祖は菱川師宣とされます。
師宣は肉筆浮世絵のみならず、版本挿絵も手掛け、後に挿絵を一枚絵として独立させました。
浮世絵師の役割
浮世絵版画では、作成においては、版元、浮世絵師、彫師、摺師の協同・分業によっていました。
浮世絵師の役割
- 版元からの作画依頼を受ける
- 墨の線書きによる版下絵の作成
- 版下絵から作成した複数枚の主版の墨摺(校合摺)に色指し(色指定)する
- 摺師による試し摺の確認を版元と共に行う
巨大パネル:葛飾北斎・歌川国貞・歌川広重
葛飾北斎
・・・世界に名を轟かせ続ける画狂、世界を魅了する天才絵師、葛飾北斎(1760~1849年)。
絵師人生
葛飾北斎は世界で一番有名な浮世絵師だといわれている。
しかし、じつは、北斎が”北斎”であった時期というのは、彼の70年におよぶ絵師人生のなかのほんの一部なのである。
彼は画号(ペンネーム)をおよそ30回変更している。
名前とともに、画風も技法も変化させ、90歳で迎える死のその時まで、絵師としての進化を諦めなかった。
北斎の子供時代は、物心つくころには写生ばかりするようになっていて、
有名絵師たちの作品に浸りながら毎日を過ごした。
そうする間に自分も絵に関係した職業に就きたいと考えるようになったのだろう。
14歳の頃には彫り師としての修行を始めた。興味を持ったら自分でやってみないと気が済まない性格なのだ。
19歳の時、役者の似顔絵を得意とする勝川派に入門。
その実力を認められ、20歳でデビュー、入門からわずか1年でデビューというスピード出世出会った。
順風満帆に見えるが、北斎は、人に頭を下げたことがなく、挨拶のほかには無駄話もしない性格で、
世間に媚びることを嫌い自分の信念を貫こうとした。こんな調子だったので、かわいげがなく、同僚からは冷遇され、
流派から大きな仕事がまわされることはなく貧乏ぐらしが始まった。
しかしこの不遇な状況が、逆に北斎の闘志に火をつけた。勝川派の大看板に頼らず、
積極的に他流派、そして外国の絵画からも技法を学び、独自路線を模索するようになったのである。
風景画の確立
中でも彼が熱心に取り組んだのが、西欧の透視遠近法を用いて風景を描く浮絵の制作であった。
彼はこれを突き詰めてゆくことによって、のちの風景画を浮世絵の一大挿絵など数多くこなすことでジャンとして確立させるのだ。
表現の幅を広げた北斎は、ジャンルにこだわらずどんな絵の注文も引き受けた。
挿絵など数多くこなすことで地道に足場を固め、人脈も広がり、中堅絵師として認知されるようになっていった。
日本画の伝統技法も習得し、美人画も評判を得ていくが、
北斎の生活は相変わらず貧しく、絵師の道を諦めようと覚悟した時期もあった。
39歳の時に”画狂老人北斎”を名乗るようになる。
改名後に手掛けた読本挿絵の仕事で人生初の大ブレイクを果たす。
流派にとらわれない大胆な手法で抜かれたのだ物語の世界観を描き出した挿し絵に庶民たちは度肝を抜かれたのだ。
このころより人々を驚かせる快感を覚えたのか、人前で曲芸的に絵を描いて見せるパフォーマンスを多く行うことになり、
北斎のネームバリューはうなぎ上りに上がっていった。
50代になって「北斎漫画」などのスケッチ集に力を注ぐようになり、
60の還暦を迎えるとなわお改号し、新たな気持ちでスタートをきった。
しかし、68歳のときに脳卒中で倒れ、体力的・精神的に打撃を受けた。
富嶽三十六景
70歳を過ぎた頃に満を持して風景画の傑作「富嶽三十六景」の制作に取り掛かるのである。
葛飾北斎:富嶽三十六景 甲州石班澤
富士山を主人公にした風景をメインに持ってくるという当時としては革命的なシリーズの「富嶽三十六景」は、
庶民の間で富士山の信仰が流行っていたこともあり異例のヒットを記録した。
その後も精力的な活動を続けるが、脳卒中の後遺症のためか体調を崩すことも多くなったが、
手と頭だけを出した状態の独特なスタイルで絵筆をとり続けた。
また、80歳の時には火事に巻き込まれ、握りしめていた筆一本のほかは全財産を失った。
その後、乞食同然の暮らしをするようになったが、それでも娘のお栄(葛飾応為)と共に絵を描き続けた。
90歳に肉筆画を描いたが、体調を崩し寝たきりとなり、その3か月後になくなった。
最後の言葉は「あと十年・・・いや、五年長生きできれば、真正の画家になれたのにだった。
絵師としての進化を諦めなかった”画狂老人”らしい。
歌川国貞
・・・浮世絵界の第一線で描き続けた才気あふれる実力者、歌川国貞(1786~1865年)。
圧倒的な人気
幕末の浮世絵界で庶民から圧倒的な支持を受けていた浮世絵師は、国芳でも広重でもなく、
歌川国貞のちの三代豊国だった。国貞は初代・歌川豊国の正当な継承者として大滝流歌川派を率いて、
浮世絵界に君臨し、生涯に一万点以上の作品を世に送り続けた。
というのも、彼の絵はとにかくよく売れたのだ。広重が風景画、国芳が武者絵を習得したのも、
国貞が美人画・役者絵という王道二大自ジャンルを制しており、そこにわって入る隙がなかったからである。
背景・作風
国貞の子供時代は、絵の勉強は、はじめは独学で行った。
国貞の少年期はちょうど浮世絵界の最盛期にあたるため、手本となる浮世絵がたくさん手に入ったのである。
とりわけ役者絵を好んだ国貞少年にとっての憧れの絵師は初代・歌川豊国であった。
そこで思い切って入門を願い出た。このとき豊国が、国貞の実力試しに、手本を見せて写し描きくをさせたところ、
仕上がりがあまりに巧みで驚いたという逸話が残っている。
師匠の信頼を得た国貞はすぐにこまごまとした仕事を任せられるようになり、22歳の時に絵草紙の挿し絵でデビューする。
これが大当たりを取って、歌川派の時代を担う若手絵師としてその名を世間にとどろかせた。
国貞は柔和温順で人の気持ちをよく考え、自己主張を好まない人格者だった。
そんな性格を反映するように作風も明るく素直で安心して見ていられるのが特徴である。
下町に育ったせいか庶民的な親しみやすさも抜群。要は大衆受けする絵=売れる絵が自然に自然に描けたのである。
国貞が一番得意としたのは役者の似顔絵である。
ふだんは冗談を言わないまじめな性格だったが、役者絵のモデルになる役者と話す時は別。
冗談を言って相手の気持ちをほぐしながら、いろいろな表情を引き出し、
その人の顔のなかで一番愛嬌が出るところを似顔絵に反映させた。
役者からの信頼も厚く、家には役者からの付け届けが山のように届き、なかなか豊かな暮らしぶりであったという。
こうした人付き合いの丁寧さが、国貞の評判をさらにあげていった。
国貞:碁太平記達升形
国貞は、役者絵だけでなく美人画にも優れていた。
庶民の女性あたりの岡場所の女性の粋な姿は、名もなき女性たちの生々しい生活臭にあふれ、
歌麿美人のような理想化された美人像とはちがう親しみやすい美しさがある。
又戯作者・柳亭種彦(りゅうていたねひこ)とタッグを組んで挿絵を描いた合巻本『偐紫田舎源氏』が大ヒットし、
これ以降、錦絵業界で源氏絵がブームになるなど、後続の絵師たちに多大な影響を与え続けた。
しかし順風満帆な国貞の人生にも一時の影が落ちる、天保の改革(1841~43年)が出版業界を直撃。
国貞:今様三十二相 始末がよき相
役者絵・美人画は摘発の的となり、開店休業状態に追い込まれたのだ。
国貞は巻き返しを図り自身の二代目・歌川豊国襲名披露の書画会を開催した。
この襲名が大スキャンダルとなる。実は国貞は、正式には三代目なのだ。
二代目は初代・豊国の弟子で豊国の養子に入った豊重という絵師で、
これには師匠の娘もしくは嫁に取り入ったらしいという裏事情があった。
真面目に国貞はこれを良しとせず、また人気実力ともに充分な自分こそが正当という自負もあったのだろう。
世間ではこの騒動を皮肉り「歌川を うたがわしくもなのりえて 二世の豊国 贋(にせ)の豊国」という狂歌が生まれた。
いわゆる炎上状態である。しかし、騒動によりさらに注目が集まった。
あまりの発注に反した絵の制作が追い付かず品質が劣化、本人はため息をついていたようだが、
三代・豊国の浮世絵というだけで売れ続けたという。ともあれ、22歳のデビューから元治元年に79歳で永眠するまで、
半世紀にわたって第一線の人気を保ち続けたのだ。幸福な絵師人生であったことはまちがいない。
歌川国貞・歌川広重:双筆五十三次 はら
・・・これは珍しい、歌川国貞と歌川広重の双筆による五十三次です(ラッキー!)。
展示作品の和紙の保存具合(たくさんの皺)から、
当時この作品は、陶器などの包装に使用されていたと想像しました。
双筆:五十三次 はら
*双筆五十三次(そうひつごじゅうさんつぎ)
堅大判55枚揃者物で国貞が人物を、広重が風景を描いた合作。
歌川広重
・・・名所絵を極めた、風景画の世界的巨匠、歌川広重(1797~1858年)。
生い立ち
広重は江戸城をまじかに見る武士の家に生まれた。
子供の頃から、浮世絵を見たり描いたりするのが好きで、歌川豊広に入門した。
真面目な広重は、入門から一年で歌川の名取(なとり)の免状をもらうなど、
着々と力を付けていった。しかしこの時点では、最優先にしていたのは家督をこなすことである。
武士としての任務をまっとうし、家を守らなければという責任感があったのだ。
家督を引き継ぐ後継者が育つと28歳で後見に退いた。
浮世絵師の世界へ
その後、絵師としての活動に本腰が入れられるようになった広重は、
浮世絵の王道である美人画や役者絵の世界で身を建てようとしたが、
歌川国貞が美人画や役者絵の世界で圧倒的な人気を誇っており、人間を描いても勝ち目はないと思たのか、
広重は狩野派や南宋画の技法を学び、独自の世界観を追求し始める。そしてたどり着いた名所絵の世界だった。
葛飾北斎の「富嶽十六景」の大ヒットにより一躍脚光を浴びた。名所絵。
広重自身はこの分野でなら活躍できると確信し、名所絵の作成に集中した。
当時世間では、東海道ブームともいえる現象が巻き起こっていた。
ガイドブック「東海道名所図会」等の大ヒットにより、世間の東海道へ注目度はピーに達していた。
東海道五十三次
そういった背景もあり作成されたのが名所絵シリーズの「金字塔」「東海道五十三次」である。
歌川広重:東海道五十三次 蒲原夜の雪
東海道の宿場に、スタートのお江戸・日本橋、とゴールの京都・三条大橋を加えた全五十三点の連作だ。
ど直球なテーマに大衆は歓喜し「東海道五十三次」は瞬く間に人気大爆発となる。
広重が37歳にして浮世絵界のメインステージに躍り出た瞬間だった。
広重は人気絵師になっても決しておごることがなく、版元からの信頼も厚く、締め切りは必ず守った。
浮世絵師にはよくいえば芸術家肌な、悪く言えば他人には理解し得ないエキセントリックな性格の人も多かったが、
武士出身の広重はいたって温和な常識人だった。
しっかり者の妻とおとなしい娘との穏やかな暮らしをしており、
毎晩の晩酌と戦闘の朝風呂に入ることがささやかなぜいたくだったという。
絵を描くこと以上に大好きだったのが、旅先で出会う風景の見物だった。
ある人に「景色はじつにおもしろい、同じ場所でも行くたびに変わって見える」と語ったそうだ。
「東海道五十三次」の大ヒットのあと、版元を変えて、
じつに20種類以上のいわゆる「東海道」物を世に送り出した。
広重が世間に飽きられなかったのは、彼自身が誰より旅を楽しみ、
その都度、新鮮な発見を描き込んでいたからなのだろう。
広重自身の性格の良さと、平凡な日常をかけがえなく思う心、名所に対する純粋な愛情、
これが彼の浮世絵を親しみやすい物にしていたのかもしれない。
広重は「東海道」物に限らず、木曾街道やさまざまな地方の名所を描いている。
一番多く描いたのは生まれ育った場所=江戸の名所だった。
歌川広重:名所江戸百景 大はしあたりの夕立
旅好きの広重にとってはスタート時点であり、ゴール地点でもある江戸は特別な郷愁を感じる格別の場所なのだ。
還暦を迎えた広重は、一世一代の大仕事に取り掛かる「名所江戸百景」刊行したのだ。
絵師としてそれまでに得てきたあらゆる技術を駆使して、江戸の町、そこに生きる人びとの姿を描いた。
広重の集大成だった。百景と言いながら、実際には百十九景まで続いているところにも思いの強さを感じる。
しかし、広重が「名所江戸百景」を完結させることは出来なかった。
安政5年夏ごろから体調を崩し、9月に入って当時大流行していたコレラに罹ってしまったのだ。
自身の最期を悟った広重は淡々と遺書をしたため、次のような辞世を残し亡くなった。
東路へ 筆を残して 旅のそら 西の御園の 名所を見舞
歌川広重:名所江戸百景 亀戸天神境内
巨大パネル:東洲斎写楽・喜多川歌麿・歌川国芳
東洲斎写楽
・・・彗星のごとく現れた、浮世絵界の謎の絵師、東洲斎写楽(生没年不詳、*参照)。
写楽は誰か?」という論争がある。世界的に有名な浮世絵師にも関わらず、
写楽の素性を伝える同時代の史料があまりにも残っていないからだ。
”写楽”の素性が、八丁堀に住む阿波藩蜂須賀家お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛であることが、
当時の考証家によって語られたのは、写楽の新筆から五十年代の事である。
現在ではこの証言の信憑性が高いことが確認され、正体を巡る論争に終止符が打たれようとしている。
田沼意次が政治を主導した時代は、経済が活性化し文化・芸術が花開いた時代だった。
浮世絵の黄金時代がはじまたころもこのころである。
しかし同時に、天災・飢餓などが続き、江戸でもうちこわしが起こるなど、社会不安が広がった時期でもあった。
事態を収束させるべく松平定信が主導したのが寛政の改革、庶民の生活を容赦なく弾圧した。
この政策に反発する庶民は多く、庶民の心情の代弁者として、政治風刺を扱った出版物が流行し始める。
その最前線に立っていたのが新進気鋭の”蔦屋重三郎”だった。
つねに新鮮な刺激を求める大衆の要求に応えるために、
蔦屋が出版した寛政の改革批判の黄表紙は、庶民の共感を呼び大ヒット。
蔦屋の姿勢は、寛政の改革の息苦しさに嫌気がさした庶民から大いに支持された。
名実共に江戸随一の版元となった蔦屋は、歌舞伎界にすり寄って、
興行の宣伝を目的とした役者絵シリーズの刊行を持ちかけた。
斎藤十郎兵衛は恐らく能役者としての仕事がある期間に歌舞伎界に頻繁に出入りして、
能に親しむ役者たちと交流していたと考えられる。
そして何かの拍子にとてもインパクトのある役者の似顔絵を描くということが蔦屋の知るところとなる。
彼の似顔絵の特徴は、美化しないことだった。高すぎる鼻、小さすぎる目、受け口、しわ、たるみ・・・
それまでの役者絵では当然のように修正されてきた。
役者にとってはマイナスな身体的特徴を、むしろさらに強調して描くのである。
これは歌舞伎業界と癒着関係にある既存の浮世絵流派には絶対できない表現だった。
美化しない歌舞伎役者像というのは、十郎兵衛ならではの新鮮な視点である。
蔦屋は絵師として起用すべく十郎兵衛のスカウトに乗り出した。
こうして、斎藤十郎兵衛は謎の新人絵師”写楽”として鮮烈なデビューをすることになる。
謎の新人絵師”写楽”の描いた歌舞伎役者の大判首絵二十八枚が一挙に店頭に並ぶと、江戸の人々は驚愕した。
黒雲母刷りの背景に浮かび上がるのは、見たことのない役者の大首絵である。
”写楽”という耳慣れない絵師の描くそれは、美しく憧れの存在であるべき、歌舞伎役者の姿とはかけら離れた者だった。
未知の役者絵を前にした大衆は、その物珍しさをおおいにもてはやした。
しかし、そのムーブメントは長くは続かなかった。”写楽”自身がデビューから十か月で突然姿を消したのである。
はじめから期間限定としての活動だったので、元の能役者斎藤十郎兵衛に戻っただけなのだが。
世間はそんな事情は知らないので、奇をてらった一絵師が消えていったと思ったかもしれない。
当時の写楽の評判は「あまりに真を描かんとあからさまに描きなぜしかば、長く行われず。一両年にして止む」。
つまり、あんまりそっくりに描こうとして、描かなくてもいいようなことまで描いてしまったので、長くは流行せず。
一年足らずで話題を終えた。というものだった。
蔦屋渾身の役者絵プロジェックト”写楽”は大失敗だったのだろうか。
いや、そんなことはない。登場から二百年以上たった現在でも、
写実性にデフォルメが加味された”写楽”の作品は世界的に最も人気の高い浮世絵であり続けている。
*生没年不詳
現在では阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、宝暦13年(1763年) – 文政3年(1820年))とする説が有力となっている。
写楽:市川蝦蔵の武村定之進
喜多川歌麿
・・・圧倒的な筆力で世界を魅了する、美人大首絵で成功した孤独の絵師、喜多川歌麿(1753~1806年)。
特徴
喜多川歌麿といえば、先ず思い出すのが美人画の大首絵ではないだろうか。
画面の大半を占めるのは女性の顔。特に髪の毛の描き方には、異常なくらいのこだわりを見せた。
複雑な日本髪の構造を正しく理解して描いている浮世絵師は歌麿だけだ、と言われている。
髪の毛一筋までのディテールにこだわった彼の美人画は夢の様に美しく、
現在でも世界中の浮世絵ファンを魅了し続けている。
生い立ち
歌麿は肉親の愛情に恵まれない孤独な幼少時代を過ごした。育ての親は鳥山石燕であった。
歌麿少年は蜻蛉やコオロギといった昆虫相手に黙々と遊んでいたという。
遊び相手だった動植物の写生が異様に得意になり、周囲から一目置かれる存在になっていた。
浮世絵界にデビューした歌麿はキャリアを重ね、有力版元・西村屋与八から黄表紙の挿絵を任されるようになるが、
鳥居清長の作品に敗北感を覚え、救いの手を差し伸べた有力版元としての地位を築いた蔦屋重三郎にスカウトされる。
蔦屋は、日本橋通油町出展に合わせて同居させ、自身の本姓である「喜多川」を名乗らせた。
「喜多川歌麿」が誕生したのである。歌麿を売り出すためにとった戦略は、狂歌絵本とのタイアップだったが、
この時の歌麿の絵は、オリジナリィーにかけていた。そこであらたに取り掛かったのが狂歌絵本「画本虫撰」の作成だった。
写生が得意な歌麿の力量を存分に発揮できる企画になっており、
まるで博物図鑑を見ているかのようにリアルな絵は、人々を驚嘆させた。
そのリアルな写実表現を人物描写に活かした、「歌まくら」と題されたシリーズものも描かせた。
すると歌麿はそれぞれの女性を、髪の毛一筋、手元の仕草一つで、立場や心情までも赤裸々に描き分けて見せたのだ。
対象の内面までも写生してしまう驚異の洞察力こそ歌麿の真骨頂であることを示した。
このころから印章に”自成一家”と記すようになる。自分の流儀を確立したという意味だ。
蔦屋は、美人画で歌麿の才能を最大限に活かすための新機軸を打ち出す。
「婦人相学十躰(ふじんそうがくじゅったい)」で、さまざま職業の女性の上半身像を描かせたのだ。
これは当時にしてみれば革命的な出来事であった。それまでの美人画と言えば全身像であり、
そのプロポーションや、流行の衣装を描くことに重点が置かれていた。
つまり、女性の美は全身の美しさにあるという発想だ。
しかし、歌麿に描かせたのは、バストアップ、特に顔の美しさフォーカスを当てた女性像だった。
歌麿は虫眼鏡で覗き込んだように、顔に現れる個性を描き出した。
ほつれ毛、うなじ・・・女性の顔をどアップで見つめることに慣れていなかった当時の人びとは、
はじめて顔や日本髪の中に女性の美しさを発見したのだ。
背景には雲母刷りを施し、銀色に輝くという演出も話題となり、
またたく間に江戸中が歌麿の描く、リアルで煌びやかな美人画に夢中になった。
勢いに乗った歌麿は美人大首絵の第一人者としての地位を確立した。
その後、蔦屋以外の版元とも積極的に提携し、自己顕示欲をむき出しにするようになる。
歌麿の絵に母子像を描いたものが多くなるのもこの頃だ。
幼少期、肉親の愛情に恵まれなかった歌麿の母子像に、
無償の愛を注ぐ母性への憧憬の念が込められているように見える。
名声を得れば得るほど、彼はどうしようもなく孤独になっていった。
そして文化元年、「絵本太閤記」に取材した浮世絵が幕府の禁忌に触れ、手鎖五十日の実刑を受けたのだ。
処分を受け憔悴しきった歌麿に、もはや一人で戦い続ける力は残っていなかった。
入牢から二年後、静かに息を引き取った。
死後一世紀たって偶然発見された墓には墓石さえなく、台座が残るのみになっていた。
*歌麿墓
浅草にあった専光寺に葬られたが、関東大震災で同寺が焼失し、
1928年4月の移転に伴い現在地(北烏山4丁目28番1号)に改葬される。
本来の墓石は「北川」と彫ってある中段の台石のみである。(SNS:世田谷デジタルミュージアム)。
歌麿:寛政三美人
歌川国芳
・・・圧倒的なエネルギーを作品に込めた、浮世絵界の革新者、歌川国芳(1798~1861年)。
生い立ち
国芳は日本橋本白銀町の染物屋に生まれた。
国芳は生粋の江戸っ子で、頭の回転が速いが学がなく、礼儀を知らない。
おまけに火事と喧嘩、そしてお祭りが大好きで、騒ぎとみるとじっとしていられずに渦中に飛び込んでいったという。
子供の頃頃からから人気絵師の絵手本などを頼りに独学で人物画を練習し、
12歳の時に”鍾馗が剣を掲げる様子”を描いた。
そのあまりの完成度の高さに周囲の大人は度肝を抜かれたという。
噂は当時一番のスター絵師である初代・歌川豊国のもとにも届き、
その才能が認められ、しばらくして入門を許された。
入門してからの国芳は早くからその頭角を現し、十代後半から作品を発表してゆくのだが、
歌川派一門内での境遇はあまりよくなかった。国貞を筆頭に、実力ある若手絵師がひしめいており、
危機感を抱いた国芳は、他流派の技法も積極的に取り入れ、独自路線を模索した。
二十歳を過ぎたころには”一勇斎”号を用いはじめ、その名に違わぬ迫力ある佳作を残しているが、
なかなか結果を残せなかった。
この頃の貧乏ははなはだしく、版下絵を持って版元に直接売り込みにいったりしたが両科を得ることは出来なかったという。
独自路線
その頃、中国の水滸伝の流行とともに、江戸の勇み肌な男たちのなかでも刺青を入れることが流行っていた。
国芳はインスピレーションを得て、三十一歳の時に発表した武者絵の連作「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」で、
筋骨隆々の豪傑たちの全身に華麗な刺青を施し、画面いっぱいに躍動させた。
この男臭い世界観は、それまでの美男美女を愛でるものが王道、
という浮世絵世界の常識をくつがえすもので、大評判となった。
髪結い床の暖簾にまで国芳風の水滸伝が染め抜かれ、
国芳の描いた水滸伝の豪傑のように刺青を施すのがたちまち流行ったという。
人気絵師となったとはいえ、国芳の生活は質素なままだった。江戸っ子らしく宵越しの金は持たない主義。
両科が入ればその日のうちに消費してしまい、貯めるということをしなかった。
しかし、そんな国芳の気質や画風を慕って数多くの門人たちが集まるようになり、独自の派閥が形成された。
人気・実力共に国貞の次点につけ存在感を増していったのだ。
ライバル・対抗策
だが、思いもよらないところから強力なライバルが現れる。
名所絵「東海道五十三次」を大ヒットさせた歌川広重だ。名所絵は地方への江戸みやげとしたうってつけで、
瞬く間に浮世絵の売れ筋ジャンルとして認知されるようになり”名所絵の広重”の名は江戸中にとどろいた。
更なる躍進を誓った国芳は、自身の代名詞である武者絵の躍動感を、よりダイナミックに表現するために、
大判三枚ぶち抜きで映画のスクリーンのような横長の画面を作りあげるなど、奇想天外な手法で大衆の心を掴んでいった。
武者絵以外にも新たな分野を貪欲に開拓し、とくに人を寄せ集めて顔を作ったり、
擬人化した動物を描いたりという戯画で評判を得る。
さらに注目すべきは、判じ絵をつかった風刺画の存在だ。国芳は「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図」の発表から、
浮世絵をたんなる娯楽としてでなく、時事的な問題を扱うジャーナリズムとして発展させたのである。
その後も多く発表し続けた作品は、圧倒的に面白いのだが、
当時の大衆には、新しすぎて理解できなかったのだ。
つねに新しい表現を模索し続けた国芳の感性が時代を追い越してしまったということだろう。
還暦を目前に国芳は痛風に倒れるが、それでも浅草寺の奥山で行われた生き人形興行とタイアップし、
興行に合わせたテーマの浮世絵を発売してメディアミックス的な試みを行うなど、
相変わらず先駆的な活動を続けていたが、65歳で力尽き自宅で静かに息を引き立った。
国芳:みかけはこはいがいい人だ
動き出す浮世絵展のまとめ
・・・今回の展示会は、時代を越えて世界を魅了し続ける浮世絵の傑作の数々が、
ダイナミックに躍動するイマーシブ(没入型)の展覧会でした。
それと同時に多数の浮世絵作品を展示した中から、作品の特徴毎にブースにまとめてあり効果的な展示でした。
それに加えて浮世絵の歴史や江戸の文化、浮世絵師たちの生い立ち・その時代背景、同業者の動向など、
6名の浮世絵師たちを個別に取り上げ、わかりやすく解説してある巨大パネルは印象的でした。
伝統・ライバルの中で絶えず繰り返す革新。版元・絵師たちの熱量が伝わってくる展示会でした。
最後まで読んでいただきありがとうございました。