アート

七宝の美展(七宝の歴史)。華麗なる明治七宝、七宝焼の制作工程・技法・釉の色。

 

・・・この度、S.マッシュ氏が所有する七宝焼が、横山美術館の企画展「七宝の美展」として展示されました。

日本の誇る数々の七宝焼を観賞した驚きを、あなたとシェアーできたらと思い記事にしました。

七宝の美展

・・・横山美術館には、明治以降世界に輸出された里帰りの陶磁器・七宝焼などを所蔵しております。

此度、同美術館は企画展として「七宝の美展」が2022/4/29~7/24日迄開催されましたので記事にしました。

写真:横山美術館企画展「七宝の美展」、パンフレット。

 

七宝の美展、概要

・・・七宝は、かって海を渡ったものが少しづつ里帰りすることで、技と美が再発見されつつあります。

国内では近年、東京の濤川惣助京都の並河靖之のようにブランドとして銘を入れた作品は、注目されるようになってきました。

しかし、名古屋や海部郡七宝町(現・あま市)で作られた尾張七宝は「銘を入れなくても作品の出来栄えを見れば、

誰が作ったかは明らかに判る」との考えが強く、職人たちの間に記銘する習慣が浸透しませんでした

七宝風景図 花瓶

写真:明治時代、権田廣助作。H24.5×23.9W

 

・・・有線七宝と無線七宝による風景図を描いた花瓶。権田廣助は、

海東群遠島村(現・あま市七宝町)に生ま、林小傳冶に師事しました。

名古屋の権田家に養子に入り明治24(1891)年、名古屋にて開業。内外の博覧会に出品し受賞も多い。

七宝菊蝶図 花瓶

写真:明治時代。H18.5×W9.9cm。

 

・・・青色釉を地色に、全面に菊花と蝶をちりばめた有線七宝の花瓶です。

菊の文様は白と紫の2種で、16枚の花弁からなる16菊が描かれています。

菊の文様は、赤・白・黒色の3種の蝶を組み合わせ、菊花の周りを自由に飛び回っているように表現されています。

七宝鯉図 花瓶

写真:明治時代。H18.3×W8.3cm。

 

・・・水中を泳ぐ2匹の鯉と、水辺に咲く杜若と蓮が有線七宝で描かれ、水波は無線七宝で描かれています。

七宝には有線七宝と無線七宝、磁胎七宝などあります。この作品は裏に刻印がありますが、詳細は不明です。

七宝花図 花瓶

写真:明治時代、作者:太田吉三郎。(H23.8×W5.8cm)マッシュ氏所蔵。

 

・・・黒色透明釉を地色とし、百合や桜など色とりどりの草花が描かれた一対の花瓶。

素地全体に細密な植線が施された有線七宝です。

花瓶の高さは24cmほどで頸部の最も細い部分径1cmほどの鶴首形と呼ばれる器形です

七宝の美展、展示会場(入口)

・・・この度、横山美術館(4F)企画展として「七宝の美展」が2022/4/29~7/24日迄開催されました。

企画展の中に「七宝の歴史」など有益な情報がありましたので、展示会場と合わせ取り上げます。

写真、企画展入口:明治~大正時代、七宝龍図蓋付壺(作者不詳)。

 

七宝の歴史

七宝の起源

・・・金属や陶磁器などの素地にガラス質の釉薬を焼き付けて装飾する七宝焼きは、

中近東に起源があるとされ、シルクロードなどを経由して飛鳥時代の日本へ伝来したと考えられています。

その後、襖の引手釘隠し、刀剣の装飾として各地で発達していきました。

幕末になると尾張藩士の子で会った梶常吉が七宝焼きに関心を抱き、近代七宝の発展につなげます。

近代七宝の始まり

尾張藩士の子・梶常吉

・・・日本の近代七宝は、尾張藩士の子・梶常吉が天保3年(1832)にオランダ船が運んできた七宝を入手したことに始まりました。

常吉は構造を調べるためそれを割り、製法の研究を重ねて翌年には、海東群服部村(現・名古屋市中川区)で自作に成功しました。

明治16年(1883)、政府は銀杯を与えて彼の功績を表しました。

その後、病床にあった高齢の常吉は感激の涙を流しながら同年80才で他界しました。

<参考記事>

尾張七宝が2022年12月、TV人気番組「なんでも鑑定団」に出品されました。(12、名古屋市の成立と近代産業)

名古屋市博物館、開館の歴史と特徴・常設展・基本計画・その他

産地と尾張七宝

・・・彼の技法が遠島村(現・あま市七宝町)にも広まり、名古屋とともに尾張七宝の産地となりました。

万国博覧会に出品

・・・慶応3(1867)年開催のパリ万国博覧会に出品された七宝はその緻密で精巧な美しさが人々を魅了しました。

また、明治6年(1876)年のウイーン万国博覧会では愛知県の七宝焼が受賞し高い評価を受けています。

その2年後、ドイツのアーレンス商会が東京に設けた七宝焼きの工場へ遠島村の塚本貝助が工場長として招かれ、

尾張七宝の広がりと発展

・・・そこでの門下がさらに京都などへも製作技法を伝えて、尾張七宝の技術は各地に広がりと発展を見せました。

華麗なる明治七宝へ

・・・明治時代に勧められた殖産興業政策の下、数多くの美術工芸品が作られました。

それらの輸出で獲得された外貨は近代国家建設の礎となりました。

七宝焼きも、かって海を渡ったものが少しづつ里帰りすることで、技と美が再発見されつつあります。

つぎの項では、個人で長年にわたりその収集に尽力なさったS.マッシュ氏の著書、「華麗なる明治七宝」で紹介します。

七宝の美展、展示会場(会場)

岡谷総助と七宝会社

・・・七宝は、慶応1年(1867)のパリ万国博覧会で好評を博し輸出が始まったが、生産者たちは市場に疎く、弊害が生じた。

そこで名古屋県令・井関盛良らは、七宝の銅製素地を商っていた鉄砲町の金物商・岡谷惣助に勧め、

明治5年(1872)年に七宝会社を設立させる。

自社工場の職工町には貝助の兄である塚本甚右衛門(粂野締太朗の父)を迎え、

同13年(1880)には林小傳冶(2代目=長男の直右衛門)を工場長に招いて、東京にも進出しました。

同社では、磁胎七宝を製造するほか、磁器への上絵付も行っていました。

尾張七宝

安藤七宝店

写真:明治時代の安藤七宝店。

 

・・・工場や店舗の様子が写された、貴重な絵葉書です。写真(上・中)は制作工場、(下)は安藤重兵衛の七宝店。

磁胎七宝

・・・万延元年(1860)頃、庄五郎に七宝を学んだ遠島村(現・あま市)の貝助が大型の皿や花瓶の制作に成功した。

さらに美濃の一ノ蔵(現・岐阜県多治見市)で作らせた磁器を素地とする磁胎七宝を創出した。

だが、金属胎の七宝の需要が高まったため貝助はすぐに磁胎七宝の制作をやめてしまったようだ。

一方、名古屋の吉田長重・直重父子も元治元年(1864)から磁胎七宝の開発を試み、明治時代には「磁器七宝発明人」を名乗っている。

名古屋では瀬戸焼の素地を用いて竹内忠兵衛や原不二夫らが制作を行いました。

しかし、磁器の白色に釉薬が映えたが*技術的に難しく、明治10年代後半には姿を消しました。

*磁器と七宝釉薬の収縮率のわずかな誤差から制作後にひびが生じるものがおおく発生した。

京七宝と「西のナミカワ」

・・・アーレンス商会へと貝助と同行した者の中に、桃井英升がいた。

英升は明治5年(1872)に京都に行き、七宝の会社を設立したことがある。

並河靖之は、英升に七宝を学んだと伝わり、京都へ指導に来たワグネルの指導を得て黒色透明釉の開発に成功した。

後に、帝室技術員となって「東」の濤川惣助に対し、「西」のナミカワとも称された。

川口文左衛門と銀胎七宝

写真:銀胎七宝の作品の数々。

 

・・・川口文左衛門は明治15年(1882)に開業した名古屋の名工で銀を素地にする銀胎七宝を創出した。

七宝は一般に、成形や釉薬との相性の良さから銅胎にすることが多いが、

銀色の素地は明るく、本来の釉薬の発色に影響を及ぼさないため美しく仕上がる。

特に銀胎の表面に彫刻を施したものは透明釉の下で効果的に輝き、

その技術は同じく名古屋の粂野締太郎に伝授されたという。

銀胎七宝陽刻龍図花瓶

写真:下の棚、右中央のピンクの花瓶。

 

・・・銀胎七宝の特徴を表している作品。銀色の素地は明るく

本来の釉薬の発色に影響を及ぼさないためピンクのグラデーションが美しい。

銀張り七宝藤鯉図花瓶

写真:胎の内側から鯉の形を打ち出して、立体的に表現している(作者不詳)。

 

・・・しかし銀は銅と比べ高価なため、銅製素地の表面に銀箔を貼り同様の効果を得ました。

銅体銀張り七宝を明治27年(1894)塚本甚平が考案した。

明治時代後期には銀張り七宝が数多くつくられ、全体に貼るほか部分的に使用するなど、工夫されている。

銀胎と銀張りは、どちらも釉彩で覆われて口縁や高台も覆輪が嵌められ、外見では区別しづらい。

華麗なる明治七宝

写真:華麗なる明治七宝(2020年9月発行、著者:S.マッシュ氏)。

・・・かって海を渡った七宝焼きも少しづつ里帰りすることで、その技と美が再発見されつつあります。

明治七宝に見せられ、個人で長年にわたりその収集に尽力なさった、S.マッシュ氏

そして、同氏からその集大成として発行の「華麗なる明治七宝」の本をいただき、その魅力にはまりました。

掲載された数多くの明治七宝の魅力の一部の紹介となりますが、

そのすばらしさの一端を、当記事で伝えることが出来たら幸いです。

はじめに

写真:S.マッシュ氏所蔵の「華麗なる明治七宝」。

 

・・・現在、七宝焼きはブローチや社章バッチ・車のエンブレムなどの一部に使われているのみで、

花瓶や絵皿は贈答品として愛好家が買い求める程度です。

しかし、明治初期にその製作方法が考案された有線七宝は、明治政府の重要輸出産品として大いに隆盛しました。

また、同時に高い技術が考案されるとともに目覚ましい進歩を遂げました。

その結果、特に明治12年頃から明治末期までのこの時期は「七宝のゴールデンエイジ」と呼ばれます。

今では再現し得ない優れた名品が生まれています。「華麗なる明治七宝」の抜粋記事の章とページも表示します。

名もなき銘品の類(たぐい)、P5

・・・七宝焼きには焼成時の偶然性などが入り込む余地はなく、下手には下手の・上手には上手の作品の身が出来上がります。

このため作者不明、サインのあるなしにかかわらず、良い作品はもっと評価されるべきと私は考えます。(著者S.マシュウ氏)。

S.マッシュ氏、七宝コレクション第一号

写真:(右)水地藤紋角花瓶、(左)水地夫婦燕紋皿。

 

<写真右、水地藤紋角花瓶>

 七宝コレクション第一号。国内オークションで陶磁器を検索中、偶然出会う。

絵図の美しさと制作技法に心酔し、以後、明治七宝を一途に収集するようになった。

<写真左、水地夫婦燕紋皿>

周囲の黒い網目も含め植線境界が非常にシャープで美しい作品。

釉漏れ(施釉時に植線境界を越えてしまうとシャープな文様とはならない)や焼成時の気泡による穴などの全く無い完品となっている。

ペア花瓶

写真:(上)赤透け鷲紋ペア花瓶、(下)白地鷲紋ペア花瓶。

写真上、赤透け鷲紋ペア花瓶>

梅の棚にとまり互いに見つめあう鷲のペア。赤透けは下地銅体の金属がそのまま出るため胎の仕上げが重要となる。

<写真下、白地鷲紋ペア花瓶>

振り向く雄鷲に、見上げる雌鷲、とまっている樹はなんの樹であろう。

口元飾りや足回りには念入りな飾りが施され得体の知れない生き物が描かれている。

濤川惣介風エンジ地鳩紋豆形飾り皿

<濤川の「魁(さきがけ)」>サインはないが、濤川のみに見られる珍しい豆形皿である。

無線七宝ではなくグラデーションを駆使した有線七宝で、裏面には桐のデザインを一面に配している。

銘ある逸品とその作風、P55

・・・銘のある作品は、同じ作者のものとして比較し系統立ててみることができ、その作風や特徴をとらえやすい。

また、尾張七宝の考え方とは別に、作者としてのプライドや意気込みがあることから、やはり優れた作品が多いのも事実である。

安藤七宝(1)

写真:安藤七宝、黄地鳳凰紋大花瓶。

 

鮮やかな黄地に一羽の鳳凰のみを見事なまでの羽飾りとグラデーションで表現している。安藤七宝の真骨頂ともいえる一品。

安藤七宝(2)

写真:安藤七宝、鯉の水くぐり紋花瓶。

 

 盛り上げ七宝と、研磨の技術で作る「鯉の水くぐり」。波模様釉薬の高低差であらわし、

水面下の鯉の胴体透明釉薬の下にもぐらせることで水中をリアルに表現している。

高原駒次郎

写真:手の指で挟めるサイズ、極小細密金線紋花瓶(H9cm)。

 

高原駒次郎は、黄銅による金線を得意とした作家であるが、なかでも本作は小さい(9cm)うえに絵柄が細かくとても正確なつくりである。

100年たっても昨日今日作られたようなきらびやかな美しさをがある。

創意と技巧の職人魂、P87

・・・七宝の名前の由来は、仏典の7つの宝に匹敵する美しさからと言われています。

7つの宝とは、金、銀、瑪瑙(メノウ)、瑠璃(ラピスラズリなどの青い宝石)、玻璃(水晶や真珠などの白い宝石。マイカイ(赤珊瑚などの赤い宝石)、蝦蛄(シャコ貝)を指します。

七宝焼きの歴史は古く正倉院の御物や桂離宮の「釘隠し」、西洋ではツタンカーメンの黄金のマスクの装飾迄さかのぼることができます。

技巧の種類については、下記の「七宝焼きの技巧」の項で詳しく述べます。ここでは一部紹介となります。

有線七宝

写真:稲葉七宝、(左)植線仕掛品と(右下)完成品。

 

・・・有線七宝は、2~3ミリ幅のリボン状の植線を立てるのですが、下絵の輪郭に沿って正確に折り曲げることのむつかしさ。

特に表面が曲面の花瓶や角のある部位にリボンを垂直に立てるのですからリボンにしわや折り目が出来そうなものですが、

これを手作業ならではの器用さでリボンを縦にも横にも折り曲げてアジヤッストしてしまうのです。

絵柄によっては輪郭の勢いを出すために太い植線を使ったり、逆に極細の植線で繊細な部分を表現します。

太い植線はさらに槌で叩いたりヤスリで擦って先細り状態にしてから植線したりもします(擦り針・打ち針という)。

花瓶の表面で銀色や金色に輝く輪郭線が七宝焼き最大の魅力と言えます。

有線七宝の頂点を極めたといわれるのが、京都出身の帝室技芸員(現在の人間国宝)並河靖之で、京都東山には記念館があります。

象嵌七宝

写真:鋳銅菊花紋象嵌花瓶。

 

・・・古来より作られてきた象嵌七宝も鋳込み技術などで胎の金属表面に多様な文様を着けられるようになってからは、

いろいろなデザインができるようになり、これに七宝により堅固な色分け装飾が可能となった。ただ鋳造のため、この花瓶は3.8kgと大変重い

逆に明治の有線七宝は銅製の胎をへらで絞ったり叩いて薄く延ばしたりするためとても軽く、これも明治の有線七宝の一つの特徴といえる。

銀張り七宝(銀引き七宝)

・・・銀胎七宝は、その美しさから大変好まれたが、銀の値段が高くつくことから、銅の胎に銀の箔を貼ることで同じ効果が得られるように工夫されたのが「銀張り」である。

しかしその後、銀胎か銀張りかで、取り引きにおいてたびたびトラブルを引き起こしたようである。

写真:白銀地赤銀張り七宝花瓶(H12.5cm)、写真右下は底のサイン。

銀張りの真っ白な地肌にはうっすらとツルのような連続した地模様が入っており、赤花と葉をすべて透明釉で仕上げた作品。

底の梅のサインは作者不明であるが他にも銀張りを生かした作品を見かけることから銀張りを得意とした作者であることがわかる。

銀散らし七宝

・・・銀張り七宝は全体に銀をかぶせたものが多いが、銀箔を四角や花模様にして散らして貼り付けたものも考案された。

部分的に透明釉下で反射する銀箔が新しい風情をまた醸し出している。

写真:緑透け銀箔チラシ花瓶(H31cm)。

 

四角い銀箔を貼り付け、絵柄の藤紋の背景としてお洒落な仕上げとなっている。

浮き線七宝

・・・浮き線は、敢えて植線部分を釉薬表面よりも浮かせて残すことにより、また違った表情を出している。

制作方法については、釉差しを植線ぎりぎりに抑え、焼成時にガラス面が下がることを利用したのか?

又は、研磨時にガラス面と植線の高度の違いからガラス面だけを磨きへこませたのか?議論が分かれるところである。

釉差しを植線ぎりぎりにとどめる案は最も考えやすいが、釉差し乾燥後、焼成前に表面を優しく研磨するなどの高度なテクニックが要求される。

<浮き線七宝作品(1)>
写真:浮き線花丸窓散らし花瓶(高原駒次郎)。

 

黄銅の植線にかけては第一人者の高原駒次郎の考案かと思われる。

確かに浮き線の技法は黄銅もしくは銅植線の場合に限られる。銀の植線七宝では一切見られない。

<浮き線七宝作品(2)>

写真:浮き線草花紋箱。

 

こちらは黄銅ではなく銅の植線で模様が作られている。はじめは黒くくすんでいたが、表面を磨くと美しい銅褐色が出てきた。輪郭の植線がむしろ主役になっている。

 

赤透け七宝

写真右太田甚之栄作、赤透け藤紋大花瓶(H25cm)。

 

・・・釉薬開発の歴史の中でも特に有名なのが、この太田甚之栄が考案したといわれる「赤透け」である。

赤透け釉は、透明な基本釉に「金」を混ぜることによって出すらしいが、

その調合はとても難しくごくわずかな分量や温度の違いでも紫色になったり全く色が出なかったりする。

深い赤色は西洋ではルビーの最高級品に用いられた表現の「ピジョンブラッド(鳩の血色)」として称賛されている。

変わり種・奇想の七宝、P111

・・・七宝職人の新しい意匠へのあくなき探求は、通常の色・形・デザインの枠にとらわれず常に独自の作品を模索した。

明治の夜明けとともに生まれた有線七宝は、帯刀禁止令や廃仏毀釈など明治維新という時代の大きな変革の中で、

職を失った刀鍛冶や仏具職人が鞍替えし一気に七宝へと向かった時期でもあった。

このため、自ら得意とする技を七宝に生かすことが出来たと思われる。

制作工程を残した珍品花瓶。

写真:制作工程、左上から左回り。
  1. ロウ付けという食洗を固定するための一番焼状態。
  2. 最初の釉差し後に焼成した状態。
  3. 2~3番焼後の状態。
  4. 最後の釉差し焼成を終え研磨前の盛り上がった状態。
  5. 研磨を終えて七宝としての美しい絵が浮かび上がった状態。

 

七宝には偽物がない

写真:黒字群鳩藤草花紋大花瓶。

・・・巷のTV番組で、本物か偽物かで一喜一憂する姿が受けて長寿番組となっている~。

~手間ひまのコスト面から偽物を作ろうにも割が合わないという面がある。

七宝焼きは、植線と施釉で絵を作ること自体に非常に手間暇がかかることから、偽物であっても時間とコストがかかるのである。

植線ではなく筆で描いて七宝焼きとうそぶいても、輪郭に光る銀色の幅0.1mmの線が無ければ、素人でもすぐに違うと見破られてしまう。

こと明治七宝に至っては、どれほどの金と時間と現代技術をつぎ込んでも再現不可能と言われており、

大衆をごまかすようなものさえ作れないのが現状である。(著者コラムから抜粋)。

七宝花瓶でスタンドを作る

・・・著者S.マッシュ氏自ら「七宝花瓶でスタンドを作成した」とのことで、現物を拝見しました。

ビックリです!自作したと説明しなければ購入した七宝と見間違えます(S.マッシュ氏の器用さに驚きました)。

アメリカでは、七宝の花瓶をスタンドの胴体部分に加工したものが良くオークションに出品されている。

そこで私も七宝の花瓶に穴を開けコードを通し、ランプソケット部分を口部に固定し、

シェードをかけることによって「七宝スタンド」を自作してみた。シノワズリな雰囲気を出すアイテムとしてとても良い(S.マッシュ氏)。

いろいろな形への応用、P121

写真左上:唐獅子紋吊り下げ七宝。

・・・装飾的意味合いの強い七宝は、胎が金属であるために食器などの実用品には向かず、

花瓶と言いながらほとんどは飾り花瓶で水を入れて花を生けるのにも不向きなのである。

その様な中で、七宝は煙草ケース(写真右上)や宝石箱ミニチュア傘やステッキなどの柄など様々なるものに応用されている。

 

七宝の仲間たち、P129

透胎七宝(中国)

写真:花紋透過七宝ボウル(中国製)。

・・・現在も中国で作られている透胎七宝。植線ではなく型抜の金属枠の中にガラスを入れて焼いて製造している。

型枠はすべてつながっているためガラスを入れずに穴を開けた部分も見どころとしている。

正確にはかって日本で作られた透胎七宝とは違うが、省胎七宝と同じく透過光を楽しむことが出来る。

 

七宝焼きの制作工程・技法・釉の色

七宝焼の制作工程

・・・七宝焼きの制作工程を、銅胎有線七宝で説明します。

写真:銅胎有線七宝で説明(七宝の美展)。

1.図案

制作しようとする七宝をイラストで描き、デザインします。

2.素地づくり

 厚さ0.4mmほどの銅や銀の板を筒状にし、合わせ目を透明な釉薬で貼り付け、火の中に入れたりしながら木槌や金槌で叩いて成形します。

3.下絵描き

素地、または施釉して焼成したものの表面に、墨と筆で図案どおりの絵を描きます。

 

4.植線

ピンセットのような箸で、銀などの細いリボン状の金属線を下絵に沿って植え付けます。

接着には、植物性の糊や透明の釉薬を用います。

5.施釉(釉薬差し)

硝石や硅石、鉛丹に原料となる金属を混ぜ、高温で焼いて作った釉薬を粉にし水と布糊を加えて植線の間くまなく詰めます

6.焼成

約700℃~800℃で10分ほど焼成し、施釉と焼成を3~7回繰り返します。

昭和時代前期から電気炉を使うようになる前は、木炭窯でした。

7.研磨

焼成した七宝の表面を砥石や朴炭で磨き、滑らかにするとともに光沢を出します。

研磨により、光輝く植線の金属も見えるようになります。

8.覆輪付け

 口縁高台の端は施釉されないので、素地がむき出しとなります。

それを隠すため、真鍮などの細長い板を丸めて後で接着します。

 

七宝焼きの技法

写真:七宝の技法(七宝の美展)。

 

有線七宝

 近代七宝の代表的な技法。絵の輪郭に沿って細いリボン状の金属線を植え付けて区画し、

その内外に釉薬をさして焼き付ける。植線の美しい輝きも、七宝の魅力です。

無線七宝

 金属線を用いずに釉薬を盛る技法で、風景図の背景などをぼかすのに適します

又、有線七宝と同等に釉薬をさしておき、焼成前金属線を取り除く方法もあります。

盛上(イッチン盛)

研磨迄の制作工程を終えた七宝の表面へ、さらに釉薬を盛り上げて焼き付ける装備です。

イッチン盛は絞り出しながら盛り上げる技法で、陶磁器にも行われました。

陶胎七宝

通常は銅や銀を用いる素地を陶器で制作した七宝です。

特に京都の粟田焼を代表する窯元であった錦光山は、陶器とともに七宝焼も制作し、販売していました。

磁胎七宝

 磁器を素地として制作した七宝。白色の時期の上に施された釉薬は、本来の美しい発色のままで仕上がります。

だが*(1)技術的な難しさのために、*(2)短期間で廃れてしまいました。

*(1)瀬戸を背景にした名古屋地区は、磁胎七宝の生産地としてのポテンシャルは十分であった。

しかし、磁器と七宝釉薬の収縮率のわずかな誤差から制作後にひびが生じるものがおおく発生した。

*(2)金属胎の七宝の需要が高まったため、多くはすぐに磁胎七宝の制作をやめてしまったようだ。

銀胎七宝・銀張七宝

 銀胎七宝:素地に白く輝く銀を用いたもの。銀は高価なものでありました。

銀張り七宝:一般的な銅胎の表面を銀箔で覆い施釉した七宝もあり、外観から両者を区別するのは難しい

透明釉七宝

 透明な釉薬で覆った七宝。釉薬の下から透けて見える素地に、彫刻などの地模様を施すものもあります。

「赤透」と呼ばれる赤色の透明釉は、尾張七宝特有のものであります。

茶金石

 釉薬に銅の粉を混ぜることで、ラメのようにキラキラと輝かせる技法であります。

茶金石は、銅の結晶を含む鉱石で、細かく砕き釉薬と合わせて使用します。

泥七宝

 梶常吉が開発した。不透明で光沢のない釉薬の七宝。明治時代前期の釉薬改良迄制作されました。

泥七宝は、釉薬が流れ落ちやすいので、固定を兼ねた文様風の絵付けが多い。

漆七宝

植線された有線七宝に、ガラス質の釉薬ではなく色漆を用います。

背景部分は彫刻したように凹凸をつ付けたものが多く、漆を施した木彫りの器に見える仕上がりです。

槌起七宝

銅製の素地を部分的に内側から叩き立体的な陽刻のように打ち出したものです。

その上に釉薬を盛るが、背景部分は施釉露胎にして銅の風合いを生かすのが特徴です。

省胎七宝

 銅製の素地に透明釉を施した有線七宝を作り、強酸で銅を溶かし去ってステンドグラスの器のように仕上げる技法です。

繊細で美しいが、強度には欠けるのが難点です。

 

七宝焼きの釉の色

・・・七宝の釉薬は、硝石や硅石、鉛丹を主原料にし、顔料を混ぜて坩堝(るつぼ)に入れます。

それを、約1400℃で5時間ほど炊いて急冷した者を乳鉢で摺り、粉にして用います。

絵具とは違い、混ぜ合わせて色を作ることはできず、各色を用意します。

 紺青色 酸化コバルト、アンチモンの少量添加。
 海碧色 酸化銅に酸化コバルト少量。
 緑 色 酸化クロムまたは酸化銅。
 紫 色 過マンガン酸カリウムまたは酸化銅、酸化アンチモン、酸化ニッケル、酸化コバルトの混合。
 褐 色 酸化鉄(ベンガラ)または酸化マンガン、酸化鉄の混合。
 黄 色 酸化アンチモンまたは重クロム酸カリ
 赤 色 クロム酸鉛または金
 黒 色 酸化コバルト、酸化マンガン、酸化銅などの混合。

 

・・・以上、横山美術館における「七宝の美展」とS.マッシュ氏の著書「華麗なる明治七宝」から取材の記事です。

「華麗なる明治七宝」:著者窓口。

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「七宝の美展」、「華麗なる明治七宝」のまとめ

・・・コレクションは身近に置いて毎日眺めて楽しんでこそ価値があると思われる。

幸い明治七宝は、特に時に海外からの里帰り品には箱など全くなく、現物のみがプチプチで包まれて送られてくる。

そのため、我が家ではすべてショーケース内か外に出しぱなしで毎日眺めていられる。

・・・以上が「華麗なる明治七宝」の著者S.マッシュ氏あとがきの抜粋です。

過日、「華麗なる明治七宝」に記載の豪華なショーケース及び、

その内外に置かれた七宝焼のコレクションを直に拝見しました。

まさに七宝愛に溢れた著者その生活空間を感じる、至福のひと時でした(感謝)

最後まで読んでいただき、ありがとうござおました。
<追加記事>

横山美術館、5周年記念誌発行について

写真:横山美術館、5周年記念誌、「近代陶磁器 美・技の世界」。

2017年名古屋市東区に開館した横山美術館は、明治・大正期に海外へ輸出された日本の陶磁器を中心に収集・展示しています。

この度、同館の開館5周年を記念し、収録作品集「近代陶磁器 美・技の世界」を発行しました。

名品500点についてカラー写真と分かり易い説明文を添え、

産地や素材、技法の解説も加え、初心者から愛好家まで広く楽しめる内容です。

定価4180円、A4変型判、224ページ。本誌販売店から配達するほか書店でも販売します。

問い合わせは」中日新聞社出版部=052(221)1714=(2022/10/1、中日新聞)。

<七宝焼収集家、S.マッシュ氏が寄稿>

本記事の参考書「華麗なる明治七宝」の著者である七宝収集家のS.マッシュ氏所有の七宝焼が、

今春、横山美術館の企画展「七宝の美展」として展示されました。

今回の同開館5周年記念誌の発行にあたり、七宝専門家として、同記念誌に寄稿されています。

最後の追加記事まで読んでいただきありがとうございました。